2010年2月23日火曜日

平将門伝奇考ギャラリー

                   将門首塚

                    首塚発掘

                     平将門


                         将門と七人の影武者

                 相馬内裏

                    俵籐太百足退治

                       俵籐太百足退治
 

 書き足りない思いを残しつつ、平将門伝奇考これにて終幕。


 

 

2010年2月21日日曜日

平将門伝奇考・18 結

 平将門の乱は終わった。
将門は討たれ、その首は京の都に晒された。
しかし、その伝説は終わらなかった。

 将門と同時期に瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友に対して、朝廷は階位を贈る事で懐柔しようとしている。
全力を持って将門に当たりたいという気持ちがここに見てとれる。
将門はそれほどまでに恐れられたのである。

 この恐怖と、民衆の英雄に対する思いが数々の伝説を生んだ。
将門の首は、死してなお言葉を発し、自分の身体を求めて坂東に飛び去る。
そして、関東の地で怨霊と化して朝廷に呪いをかける。
少なくとも、都においては将門は怨霊であった。

 一方、将門の地元坂東の地では、将門は地霊として敬われている。
坂東の民の守り神として・・・・・・。
その例の一つが、神田神社への民衆の信仰であろう。
死してなお将門が慕われた証は、様々な伝承や寺社への信仰に現れている。

 時は流れ、徳川が江戸の地を本拠地と定め、湿地を開拓する。
この折に、家康・天海により、将門は江戸の守護神・地霊として重要な役割を振りあてられた。
首塚は大手門の正面に残され、神田神社は厚く庇護される。
江戸期において、神田神社の大祭の神輿だけは、江戸城内に入る事を認められている。
これは破格の扱いである。

 家康は、源頼朝と並び将門を武家の祖と考えたのだ。
自らの祖先を厚く祀るならば、祖霊は守護神となる。

 一方でまた、関東での将門人気というものがある。
民衆の敬う将門を自らの祖として祀る事は、徳川政権の人気へと繋がる。
さらに、武士の祖であるならば、全ての武士はこれに刃を向ける事が出来ないという事でもある。

 これが、将門が江戸の守護神とされた理由であろう。
しかし、私はさらにもう一つ別の意図が見えるような気がする。
江戸城の正面に「新皇」将門を据える。
本来、朝廷に対してこれは不敬にあたる。
家康は、それでもあえてこの不敬を犯したのだ。
それは、朝廷に対して、日本の主権は我にありという高らかな宣言ではなかっただろうか?

 そして、ここから真の武士の時代が始まったのだ。

            了。

平将門伝奇考・18 坂東の虹Ⅲ

 日本の歴史上、皇族同志の争いを除いて、天皇になろうとして反乱を起こした者は、平将門の他にない。
この出来事は朝廷にとって未曾有の脅威であった。
まして、将門軍はそれまでの常識にない刀や防具で武装した強大な騎馬軍団であった。

 都には明日にも将門が京に攻めのぼるという噂が飛び交い、朝廷は大混乱に陥る。
この年の元旦も正月行事はほとんど中止され、朝廷は全国の寺社に将門調伏の祈祷を命じている。
その数、なんと340にのぼったという。
朝廷が、都の鬼門に湧き起ったこの暗雲をいかに恐れたかが窺える。

 さらに、朝廷は公家の藤原忠文を征東将軍に任じる。
この時代、常備軍などはない。 忠平は軍を募った。
鬼を討てる者は鬼。 平貞盛、藤原秀郷軍が将門討伐にあたることとなる。

 藤原秀郷=俵籐太。 瀬田大橋にて龍神=蛇の依頼で大百足を退治した勇者である。
以前に述べたように百足は産鉄民を意味する。
そして、龍=蛇もまたヤマタノオロチの例にも見えるように産鉄民の象徴である。
百足VS龍の図式は産鉄民同志の争いでもある。

 新兵器には新兵器を、通常の矢を通さない将門の「鉄の身体」を討てるものは百足殺しの呪の籠った矢のみ。
同じ装備の籐太の矢は、将門の鎧を貫くことが出来る。
かくして、龍による百足殺しが再現されることになる。

 天慶三年(940年)二月十三日、貞盛・秀郷軍二千八百は将門の館を急襲する。
しかし、その場にいたのは将門軍の総勢八千ではなく四百だけに過ぎなかった。
これには理由がある。

 この当時、否、それ以後も日本における軍人とは農兵であった。
常日頃は農業に従事し、戦時のみ武士として戦闘に加わるのである。
だから、農繁期には戦闘は行われない。
これが常識であり、この時期田起こしのために将門軍のほとんどが地元に帰っていた。

 奇妙に聞こえるかも知れないが、後世における信玄VS謙信の七度に渡る川中島の合戦が、何故決着がつかなかったのかという理由も実は同様なのだ。
信玄と謙信は睨み合う間に農繁期を迎え兵を引いた。 これが「名勝負」の実際のわけ・・・・・・、少なくとも理由の一つなのだ。
史上、専業武士を始めて組織したのは実は織田信長であり、それ以前は農兵が主であったのだ。

 将門はこの後に及んでも甘かったと言わざるを得ない。
新皇を名乗り、朝廷に反旗を翻した以上、本来この闘争は朝廷を倒すまで終わらない。
通常の領地争いの域を越えた反乱。 その認識がなかったのかも知れない。

 一方、貞盛・秀郷軍は農民を地元に帰さなかった。
両軍の戦略の差がここに出た。
当然、将門側の情報も収集していたであろう。
将門軍が寡兵になるのを知っていたと私は考える。

 かくして、将門の元から「妙見神」である軍勢は去って行った。
諜報・諜略戦において、都流の軍略が勝ったとも言えよう。

 余談だが、将門の妻・桔梗が籐太に内通したという伝説もある。
桔梗と言う名にも意味がある。 桔梗紋とは五亡星と同意であり、これも工業者の紋章である。
すなわち、ここにもタタラの影が見え隠れするのだ。

 ・・・・・・かくして百足は龍に滅ぼされた。

 都の圧政に耐える坂東の民は、自分たちの大地から立ち昇る虹を見た。
虹は彼らの希望を乗せて、天に届くかと思われた。
坂東の天と地を結ぶ壮大な虹はひと時まばゆく煌めいて、そして、消えた。

 

2010年2月20日土曜日

平将門伝奇考・17 坂東の虹Ⅱ

 余談だが武芝を襲った源経基なる人物について。
経基は武勇に優れた人物ではなく、その性格は貴族的であったと言われる。
彼の父は清和帝の第六子であったことから、経基は六孫王などと呼称された。
そして彼は清和源氏の祖とされている。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は彼の子孫である。

 後に述べるが、家康は頼朝と将門を江戸の霊的守護の要に据えるのだが、その二人の人物がここで奇妙な縁により交差しているのは面白い。
歴史は時に意味深ないたずらをする。

 運命はこの後急変する。
常陸の住人・藤原玄明(はるあき)が罪を犯して国府に追われ、将門に庇護を求めて来たのだ。
将門はこれをかくまい、引き渡し要求に応じなかった。

 将門も玄明が犯罪者であることは解っていた。
しかし、彼はそれでも自分を頼って来た者を庇ったのだ。
追っ手が宿敵・平貞盛の身内である藤原惟幾であった事も原因の一つであったのかも知れない。

 そしてこれは反逆以外のなにものでもなかった。
単純な「義」により、将門は謀反人となった。
この「義」が後世の将門人気につながるのだが・・・・・・。

 さらにこの後、将門は常陸国府を襲撃する。
都の貴族による理不尽なふるまいや搾取に対する憤りもあったであろう。
こうして平将門の乱は始まった。

 しかし、彼は本当に朝廷に対して反乱を起こしたという意識があったのだろうか?
将門は彼に味方する地元民と共に国府軍を圧倒し、常陸介の藤原惟幾を生け捕りにしながら、国府を占領するでもなく引き上げてしまう。
さらに惟幾を都に送り返している。

 この痛快な行動は坂東の民に広く支持された。
さらにここで興世王が将門の側近につき、反乱を煽る。
「一国を討つのも坂東全体を占領するのも同じ」であると・・・・・・。

 そして翌940年2月、将門は数千の兵をもって挙兵する。
まずは上野国国府を陥落し、公印を奪い続いて下野国府を陥落する。

 ここに一人の巫女が現れ自分は八幡菩薩(応神天皇)の使いだと称して神託を告げる。
「朕が位を蔭子・平将門に捧げ奉る。 ・・・・・・」。
将門を天皇に任命するという神託である。

 この後、将門は坂東八か国の国府を陥落し、国司を任命する。
下野守=平将頼(弟)、上野守=多治経明、常陸介=藤原玄茂、上総介=興世王、安房介=文屋好立、相模守=平将文(弟)、伊豆守=平将武(弟)、下総守=平将為である。
これは、何故全てを最高責任者である守にしなかったのかが謎である。
良い参謀がいなかった事が見て取れる人事ではある。

 その後かつての私君である藤原忠平に将門が送った書状にはこうしたためてある。
「将門はすでに柏原帝王(桓武天皇)の五代の孫なり。 たとひながく半国を領せるも、あとに悲運といはんや、昔、兵威を振るひて天下を取る者、みな史書に見る所なり。 将門、天の与へる所、すでに武芸にあり、思ひはかるに、等輩だれか将門に比せん」

 天皇の血筋である自分が天下の半分を領有して悪かろうはずはない・・・・・・。
朝廷を覆し、自らが天皇になるつもりはなかったのである。
なんと中途半端な反乱であったことか。
単なる領地争いの延長と考えていたのであろう。

 さらに、「武芸」に優れた者が天下を取るという思想もここに見える。
このあたりが、武家の祖であると考えられた所以であろうか。

 武士による関東の統治。
朝廷の支配による理不尽なまでの搾取を排し、坂東を独立させる。
これが将門の見た夢であった。

 貴族による搾取と差別に苦しんだ坂東の民は、将門の乱に魅せられただろう。
しかし、この乱は長くは続かなかった。




2010年2月6日土曜日

平将門伝奇考・16 坂東の虹-Ⅰ

 最初に、史実を簡単に紹介した。
最後に、私の考えを加えた平将門の生涯を再び追ってみよう。

 天武天皇の曾孫・高望王は、藤原北家が台頭し、出世の望みがなくなった都を捨て、上総介として東国に下る。
この時、「朝敵を平らげる」意味で賜ったのが平の姓である。

 高望王の、都では役にたたない血筋も、まだ未開の関東においては、地方豪族の娘婿として敬われた。
反乱の絶えなかった東国の秩序維持にも、それは役立ったであろう。
蛮族と呼ばれた蝦夷にも、一目おかれたであろうことは想像に難くない。
こうして、平一族は関東においての地盤を固めて行くことになる。

 さらに、高望王の子であり、将門の父である良持は鎮守府将軍の職についている。
狩猟民である俘囚などの反乱を鎮圧する戦いで、皇族であった平一族は、軍事貴族へと変貌を遂げて行く。
これが、武士の祖である。

 平小次郎将門は、平一族が東国での地位を確立した10世紀初頭に生まれる。
しかし、正確にはいつどこで生まれたかは不明である。
将門は、良持の死後、母方の下総北部の猿島郡・豊田郡という広大な領土を受け継いだ。
あるいは、傍流の血筋であったのかも知れないと私は想像している。
領地を巡る叔父たちとの対立もそのあたりに端を発するのではないだろうか。

 蝦夷や俘囚は反乱するばかりではない。
都では人と認められない彼らは、壮大なフロンティア坂東における、将門の配下でもあった。
将門は彼らを使い、湿地が主であった領地に広大な放牧場を作り、馬の生産による財力を蓄えた。
同時に、牧の片隅に製鉄場を作り、武器や農具・馬具を生産する。
将門の騎馬軍団はこうして力を蓄えて行く。

 やがて、彼は官位を求め都に上る。
検非違使の尉という管理職を求めた将門は、願い空しく禁中護衛の職しか得ることが出来なかった。
彼の主人にあたる藤原忠平も、彼の人柄を認めながらも間接的にその要領の悪さを示唆している。
上手く賄賂が贈れない。 貴族としての雅な付き合いが出来ない。
おそらく、そのようないささか武骨な人物であったのではないだろうか。

 下向した将門を待っていたのは、叔父たちとの領地を巡る争いであった。
この時代の関東は、領地や利権を巡る争いが頻発する、一種の無法地帯の様相を呈している。
その中で、将門はかなり有力な地方豪族であったようだ。

 将門が三十六歳の時に、武蔵国に新しい国司が赴任する。
権守(ごんのかみ)興世王と介(すけ)の源経基である。
(実質的な地方長官と副長官と考えてもらえば良い)

 彼らは、視察の名目で貢物を集めようとするのだが、これに対して地元の武蔵武芝は「慣例にない」事を理由に待ったをかける。
それでも「視察」を強行した興世王・経基との衝突を恐れた武芝は山野に身を隠す。
 興世王たちは、武芝の屋敷を襲って金品を強奪するという行為に出る。
武芝は返還要求するが、逆に興世王たちは兵を向ける。

 ここに将門が登場し、この仲裁に入ったのだ。
無位無官の将門が、朝廷の定めた地方責任者の争いを仲裁する。
これは、この地方における将門がいかに有力であったかを物語っている。
さらに、将門が公正で単純な正義感の持ち主であった事を窺わせる。

 将門の仲裁により、興世王と武芝は和解した。
ところが、経基は武芝の屋敷を包囲するという暴挙に出た。
その後、将門・興世王・武芝連合を恐れて都に駆け戻り、何とこの三者が朝廷に対して謀反を起こしたと訴え出る。

 何ともあきれ果てた話である。
しかし、この容疑は、将門が常陸・下総・下野・武蔵・上野の五か国の国府から「謀反人にあらず」という証明書を出してもらい都に送りつけたことで晴らされることになる。
このことからも、将門の実力と人がらが広く認められていた事がわかる。

 親分肌の人間で、人々から慕われていたのであろう。
しかし、その事がこの後の悲劇へと結びついて行く。


 

平将門伝奇考・15 幻想から歴史へ

 百足、妙見菩薩、八幡神など、将門の伝説は「タタラ」を暗示するものが多い。
では、実際の接点は?

 それは1981年に発見された。
将門の放牧場の南端から、当時の製鉄炉二基が出土したのだ。
ここから、鉄のこびりついた炉壁、数トンに及ぶ鉄かす、鍛冶場で使うふいごの破片までもが見つかった。
将門は放牧場に隣接した製鉄炉を所有していたのだ。

 関東・東北では、七~八世紀にかけての製鉄炉は、非常に規模が大きく、西日本からの技術を導入していたと見られるのだが、九世紀の半ばには小型の製鉄炉が各地で作られるようになる。
将門のような領主たちが、自分で鉄を作るようになっていたのだ。

 彼らは、自分で農具や馬具、武器を製造していたものと考えられている。
当然、それに従事する民を従えて。
これが、タタラと呼ばれる民である。

 そして、彼らは新兵器を生み出す。

 製鉄炉跡の近くに大宝八幡宮があり、かつて将門愛用の刀が奉納されてあったという。
今はその言い伝えが残るばかりで、刀はない。
しかし、1940年頃に、この神社のすぐそばから古代の刀がまとまって出土した。
これは、十世紀つまり将門の時代の刀であるという。
そのうちの一振りが、今も残っている。

 その刀にはそりがある。

 何を当たり前のことを言っているのだと思われるかも知れないが、平安時代の初期までは直刀が使用されており、この時代は直刀から日本刀へと移り変わる過渡期であった。
刀身にそりのある日本刀はまだ無い。

 この時代、関西には柄が婉曲し刀身は真直ぐな「蕨手刀」しかなかった。
これは、突くことを主体とした刀であり、馬上で使うには不向きな武器であった。
日本刀の形が完成するには、十二世紀まで待たなければならない。

 しかし、出土した刀には刀身にまで反りがある。
これは、日本刀に限りなく近い、斬撃を想定した武器である。
即ち、騎馬で戦う上で有効であるのは勿論、地上での接近戦に於いても極めて精強な武器であった。

 これは想像であるが、兜や鎧にも鉄は使われたたであろう。
刀や矢を通さない身体。 これが、将門の黒鉄の身体の正体であろうと推測出来る。
「妙見菩薩」の加護は確かにあったのかも知れない。

 新兵器。 これが将門軍団の強さの秘密のひとつである。

 さらに、馬である。
将門の所領は、広大な湿地帯だった。
ここは、農業生産には不向きな土地であったが、将門はこれを改良し放牧場を作った。

 将門の放牧地のものと見られる土塁が今も残されている。
土塁の長さ南北に2,4キロ。 築造に動員された人員、推定二万人。
放牧地の広さおよそ350ヘクタール。
巨大な土塁と天然の沼、さらにそれを延長した堀で囲まれた壮大な放牧場であった。

 ここで、将門は当時貴重であった馬を大量に生産していた。
この豊かな資産が、同族間の争いを引き起こす事にもなるのだが、今は騎馬軍団についてだ。

 普段から馬の扱いに長けた将門軍団は、戦闘時に於いてもそれこそ鬼神の如き働きを見せた事であろう。

 新兵器を携えた、鬼神の如き働きの騎馬軍団。
これが将門軍の強さの秘密である。

 旧式の直刀と、遊びの延長で乗る馬術。
都の貴族の軍に、もはや対抗する術はなかった。
鬼門の方角に湧きおこる巨大な雷雲・平将門。
それは、公家の時代の終末と来るべき武士の時代を暗示しているようだった。

2010年1月31日日曜日

平将門伝奇考・14 伝説と史実の狭間‐Ⅱ

 さて、ここで「タタラ」である。
これは流浪の産鉄民族という側面を持ち、日本の古代史にその影を大きく落とす存在だ。

 一部には、遥かヒッタイトで生まれた金属材料を掘り出し、加工する産鉄民族が、中国大陸を渡り、朝鮮半島を経由し、日本にその技術を伝えたという説もある。
この民族は、白鳥の神話を持っており、これが日本に伝わりヤマトタケルの白鳥神話を産んだと、大胆な仮説を述べる方もおられるようだ。

 ここまで行くと、もはや話が壮大に過ぎて、私の手には負えない。
だが、この「タタラ」を抜きにして、将門を語れないのも事実である。

 タタラは、片脚で鞴を踏み、片目で炉を覗き込む。
故に、片目・片脚を悪くする者が多かったという。
だから、タタラの神は片目・片脚である。

 記紀神話における、天目一神・アマメマノヒトツノカミは正に鍛冶神の性格を持っている。
やがて、神は時代を下って零落し妖怪となる。 これが、「一本だたら」などである。

 夏に河で砂鉄を取り、冬に山で蹈鞴作業をする民。
川童(かわわろ)・山童(やまわろ)、これは河童である。
さらに、これらは頭がカムロであり、「童形」である。
これは、髷を結わない、即ち常民では無い事を表わし。
四民制度の埒外の存在であることを示す。
タタラは籍を持たない流浪の民であった。

 彼らは、鉄鉱石や砂鉄を求めて、山を流浪し、製鉄に必要な木材が尽きるとまた別の場所に移るという、一所不在の集団であっただろう。

 タタラは金属を加工し、武具を作る。
故に、産鉄神であり、武士の守護神である。
八幡神や北辰信仰はこれに連なる。

 将門を支えた、タタラ集団が存在すると、ここで断言しよう。
これは、妙見信仰を持った集団であり、将門の元で武器を作り、馬具を作り、ある時は戦闘に加わったであろう。
これが、妙見菩薩の加護の正体だ。

 だが、妙見菩薩は最後に将門を見限り、敵方につく。
神にあらざる人間集団ならば、この行いも簡単に理解出来る。
おそらくは、敵方の切り崩し工作・諜略があったのであろうと推測出来る。
これが妙見菩薩が敵方を守護した理由である。

 記紀神話では、ヤマトタケルが女装してクマソタケルを討った話が記載されている。
古来、日本ではこのような謀略・知略をも戦略にたけた行為として称える風習がある。
敵の切り崩し工作は当然の行為であっただろう。

 そして、将門は討たれた。
朝廷側直属の軍などは存在しない。
討ったのは同族と、もう一人の将門になったかも知れない俵籐太の軍勢である。

 殿上人は自らの手を汚さない。
検非違使の制度を見よ。
犯罪者を取り締まるのは、卑賤の者によって・・・。
同類に同類を当てるという思想である。
人にあらざる鬼に鬼を当てるのだ。

 かくして、鉄の身体を持った戦鬼・将門=百足の王は百足殺しの「英雄」=鬼・俵籐太に滅ぼされる。
一説には片目を射抜かれたとある。 これも、タタラの暗示。 ご丁寧な話だ。

 あるいは、コメカミを射抜かれたのであれば、矢は横=味方のいる場所から飛んできた事にになる。
この場合、弓を射たのは、やはり籐太か、はたまた、味方であったタタラの集団か・・・。

 貴族にあらずば人にあらず。
人にあらざる関東人は、将門が新皇を名乗ったことに大いに喝采した事であろう。
しかし、将門と人々の夢はここに尽きた。

 これが、私の将門幻想だ。
そして、これだけでは妄想に過ぎない。

 次回、これを論証する。
神話と史実を重ねる。



 

平将門伝奇考・13 伝説と史実の狭間 Ⅰ

 まだまだ語るべき事柄は尽きない。
だが、そろそろまとめに入ろう。

 まずは、気になるキーワード「タタラ」について。
承平5年の良兼との合戦中に、将門の前に妙見菩薩の化身が現れたという話(源平闘諍録)については前述した。

 将門の前に現れた「童子」は、将門に河の浅瀬を教え、矢を与え、彼の代わりに矢を射て味方する。
良兼はその姿に恐れをなし陣を引いた。
 将門がその童子に跪いて問うと、童子は「私は妙見菩薩である。 上野の花園という寺に祀られているので、志があるならば私を迎えよ。 私は十一面観音の化身であり、五星中の北辰三天子の後身である。 東北の角に向かって我が称号を唱え、笠のしるしに千九曜の旗をさせ」と語った。

 妙見菩薩の守護を得た将門は破竹の勢いで、連戦連勝を重ねる。
これは、神仏の守護譚の多くに見られるパターンだが、この場合、話はこれで終わらない。
やがて、将門が新皇を名乗ると、これが「不敬」であるとして、妙見菩薩は彼を離れ敵の陣営に味方するのだ。

 将門が妙見菩薩をないがしろにした訳ではない。 あるいは、妙見信仰を破棄した訳でもない。
「新皇を名乗る事は不敬である」という理由で、一方的に敵にまわったというのだ。
そして、将門は討たれる。

 この場合の妙見菩薩とは何者であろうか?

 妙見菩薩は北極星を神格化したものであり、北斗七星までを含めて信仰される。
人間界の帝王を守護する神であり、武家の守護神でもある。
後世の千葉周作・北辰一刀流などもこの神を祀り、道場も縁のある神田に設けている。

 鎌倉幕府を起こした源頼朝は八幡神を信仰した事でも有名であるが、鎌倉・鶴岡八幡宮には「北斗堂」と呼ばれる堂が15世紀過ぎまで存在したという。
さらに、頼朝は日光東照宮に摩多羅神として祀られており、摩多羅神は北斗七星の傍星である。
摩多羅神は神像の頭上に北斗七星を戴く北辰に関わる神だ。
故に、この場合、八幡神=妙見菩薩という関係が成り立つ。

 ちなみに、摩多羅神は人の寿命に関わる妙見菩薩と同様の働きをし、陰陽道においては泰山府君と同一視される。 また寿命を司り、死後の世界を支配するという役割から、スサノオとの同一性も見られるという、実に複雑な神だ。

 さて、一説によれば、この八幡神や妙見菩薩、北辰はタタラに関わる神であるとされる。
さらに、将門の首塚に見られる蝦蟇、蛙もまたタタラとの関連性があると言う。
そして、英雄・俵籐太が瀬田大橋で討ちとった百足と将門の関連もタタラとの附合を暗示する。
(前述したように、百足=タタラの図式が成り立つ)

 至るところに立ち現れるタタラの暗示。
これは一体何を意味するのだろうか?


 

2010年1月24日日曜日

平将門伝奇考・12 地上の北斗七星

 聖地や宗教的建造物が、意図的に配置されているラインに関する考察は数多い。
結界とは、宗教用語で、おおまかには神域の内と外の境界の意である。
マジカルにとらえると、魔方陣や五忙星などの図形を描いたり、神像・仏像などで魔の侵入を阻むために形成されたラインと言う事になる。

 レイラインとは、イギリスで古墳や祭祀場の配列を調べたおりに、ラインを形成する遺跡のある地名のあとに、全て「レイ」がついていたことにより付いた名称である。
日本では、小川光三氏の提唱した「太陽の道」が有名だ。
これは、北緯三四度三二分の東西線上に並ぶ七百kmにも及ぶラインで、西は出雲の須佐神社から東は下田近辺にある賀茂神社まで、ずらりと神社や聖地が並ぶ様は壮観である。

 ラインそって配置することによる、霊的守護力の強化。
その実効性についての議論はともかく、そのような考え方が古来より見られたというのは事実だ。
将門ゆかりの神社仏閣に関しても、ラインについての考察は数多い。

 例えば、北斗七星の形に神社仏閣が配置されているという考察。
加門七海氏によれば、鳥越神社・兜神社・神田明神・将門首塚・筑土八神社・水稲神社・鎧神社を結ぶと巨大な北斗七星が地上に描かれるという。
ここまでは、前述の江戸結界の神社仏閣と同じである。
氏はさらに、北斗の補星としての摩多羅神・妙見菩薩の位置に「鬼王神社」があると説く。

 七つの神社、あるいは将門の七人の影武者伝説。
柳田国男氏の「七塚考」によれば、全てが北斗七星信仰と関係するという。
非業の死を遂げた人物を、北斗七星や七という数字で鎮魂する習わしがあったというのだ。

 将門の鎮魂のために地上に配置された地上の星座。
北斗配列もまた巨大な結界なのかも知れない。

2010年1月23日土曜日

平将門伝奇考・11 守護神のメカニズム

 怨霊から守護神へ・・・。
蛇足ながら補足しておこう。
 古来より、日本では怨みを残して死んだ人物は怨霊になるとされた。
これにも法則があって、基本的にこの「人物」というのは皇族に限られる。
菅原道真など、ほんの少数の例外を除くと、皇族でなければ怨霊にはなれない。
せいぜい、幽霊や妖怪になるくらいである。

 一つには、皇族は選民であり、霊力が強いと考えられたせいでもあるだろう。
だが、本質的には、怨霊も祖霊であると言う事に起因するのであろうと思う。
皇族は国の祖霊として祀られる。
故に、その時点で神である。
怨念を抱いた神ならば、それは怨霊に他ならない。

 本来は現象が先にある。
例えば、疫病が猛威をふるう。
古代にはウィルスなどという概念は無い。
故に原因不明の怪死である。

 これは「気」が枯れる事に起因すると考えられる。
「気」とは、エネルギーであり、これが枯れると病になり、はなはだしきは死に至る。
「気」=ケであり、ケが枯れるとはケ枯れ=穢れである。
穢れに触れると、触れた者もケが枯れる。
故に、穢れは忌避される。

 死人は究極の穢れである。
疫病による死体がそこらじゅうに転がっている状況とは、穢れに包囲された状況である。
古代においては、疫病人や死人を隔離する理由をそのように考える。
因果の因に対する考えが違うとはいえ、対処方の基本は同じである。

 「気」という考えもまた、この時代の科学である。
科学とは、合理的で汎用性のある説明の体系なのだ。

 ケが枯れた状態はいかにして回復させうるのか?
ケを回復するのが祀りである。
祭りとは本来祀りなのである。
枯れたケを回復する方法が、祭りである。

 祀りによって、ケが回復する。
ケがフル充電された状態を「ハレ」と呼ぶ。
故に祭りとは「晴れの日」なのである。

 エネルギーはかく輪廻する。
エネルギー残量のない「ケ枯れ」から通常の「ケ」へ、そしてフル充電状態の「ハレ」へと。

 負の祖霊である怨霊は、故に祀られる。
敬い、祀りあげる事により、怨念が晴れる。
祟りなすほどの強力なパワーは、外部から侵入する悪しき鬼の侵入を阻止する力に転化される。

 かくして、怨霊は守護神となる。
否、成り立ちを考えるならば、怨霊とはすでに神なのである。

 そして、将門は江戸の地霊となり守護神になった。

2010年1月11日月曜日

平将門伝奇考・10 江戸の地霊

 将門の首塚のある柴崎は、現在と違って江戸湾が内陸に入り込んでいたために、当時は海辺に面していた。
そのため、洪水や津波の被害が多かった。
それらの被害の全てが将門の祟りであるとされたため、安房神社に合祀された。

 伝説では首が飛んできた・・・となるわけだが、実際は将門の家臣の依頼により、僧侶が京に上り首を貰い受けて来たといわれる。
そして、神田山の胴体を掘り出して首と共に供養した。

 これが神田神社の起こりであると言われるのだが、事はこれだけでは終わらない。
江戸時代に入ると、柴崎の地は大名屋敷になり、天海により再び首と胴体が離れ離れにされる事になる。
柴崎の地に首塚を残して、神田神社は現在の地に移転される。

 何故、全てを移転しなかったのだろうか?
首塚は、江戸城の正面玄関・大手門の正面に残されたのだ。

 そして、江戸の都市は、江戸城を中心に、時計回りに堀を巡らせて開発が進められる。
さらに、江戸城を中心にして、東海道・甲州道・中山道・奥州道・日光道の五街道が配される。
堀と街道の交点にには橋を架け、見附と呼ばれる城門が設けられた。

 これが江戸の都市開発の基盤となるのだが、奇妙な事に、街道と堀の交点には全て将門ゆかりの神社が配置されている。
大手門前には首塚が、ここは奥州道の起点であり、さらに浅草橋門前には将門の手を祀った鳥越神社がある。

 日光道には胴体を祀った神田神社、中山道・牛込門には足を祀った筑土八幡神社、甲州道・四谷門には鎧を祀った鎧神社、東海道・虎ノ門には兜を祀った兜神社がある。

 街道と川・堀の交点はまさに境界を示すポイントである。
ここに祀られるのは通常、道祖神であり即ち塞(さえ)の神。
異界より侵入せんとする悪鬼を遮る神である。

 将門の霊は、江戸の地霊として鎮魂されると同時に、江戸の守護神たる役割を担わされたと言えよう。
家康・天海により、江戸の都市計画に将門は地霊として組み込まれたのだ。

 神社によっては、正式に将門を祀神を加えていない場合もあるが、これら全ての神社が「将門公を祀る」と公に認識されている。
神田神社の祭神は大己貴命・平将門・少彦名命、鳥越神社は日本武尊・天児屋根命・徳川家康、筑土八幡神社は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇、鎧神社は日本武尊・大己貴命・少彦名命・平将門、兜神社は倉稲魂命(うたのみたま)・大国主命・事代主命である。
 これらは、ごく大雑把に言えば全て国家鎮護に関わる神と考えれば良い。
即ち、江戸を守護する神社と考えれば良いだろう。

 さらに神田神社は天海によって江戸の総鎮守という、最高の社格まで与えられている。
江戸の守護神として祀られた平将門。
では、何故将門が祀りあげられたのか?
次回は、いよいよその考察をしよう。


 

2009年12月27日日曜日

平将門伝奇考・9 タタラとの符合Ⅱ

 平将門に関しては、一次資料と呼べるような文献がほぼ存在しない。
唯一、「将門記」が存在するのだが、これとて散逸した部分もあり、さらに現存する二冊の写本にも、部分的に記述の相違がある。
さらには、「将門記」自体が、12世紀に書簡をまとめたものであるとする説もある。
その他には、「太平記」などに記された二次資料が存在するのみである。
そして、これらの中には、将門とタタラの関係を暗示する言葉はあっても、直接の関わりを示す文章はない。

 しかし、将門の放牧場が調査された1981年に興味深い発見があった。
放牧場の南端から、二基の製鉄炉が出土したのである。
鉄のこびりついた炉壁、数トンの鉄かす、さらに蹈鞴に使われるふいごの破片が見つかったのだ。

 それ以前から、伝説や縁の神社・仏閣の関係から、将門とタタラの符合については、多くの人が指摘してきたのだが、実証は不可能のように思われてきた。
しかし、関係はあったのだ。

 そして、この事は実に多くの意味を持ち、歴史・伝説の謎の部分を解き明かす鍵となる。
その事については、最後にまとめとして述べたいと思う。
次は、将門にまつわる神社・仏閣について書こう。
そして、江戸の鬼門封じ・風水との関わりについて書いた上で、私の考えをまとめたいと思う。

2009年12月25日金曜日

平将門伝奇考・8 タタラとの附合

 百足は産鉄民との関わりが深い。
金鉱脈に群がっていたという伝承も多い。
例えば、後年、武田信玄は金鉱などの掘削作業を主とする者たちを、戦場での土木工作専門の部隊として組織した。
この部隊は百足衆と呼ばれた。

 百足は金属を好むと考えられていたのだ。
あるいは、坑道から鍬などを担いで、ぞろぞろと作業員が出て来る姿が百足を連想させたのかもしれない。

 将門が矢を受けた部分には諸説あり、そのひとつに「片目を射抜いた」というものがある。
「片目」もまた、タタラを示すキーワードである。
常に同じ方の目で蹈鞴の炎を覗き込む彼らは、一方の目を失明する事が多かったからである。
さらに、同じ足で鞴を踏み続ける結果、片脚が不自由になる者も多かった。
片目・片脚はタタラを示すキーワードだったのだ。

 この「片目を射抜かれた」という伝説は、将門=タタラという図式を意識する者の創作であろう。

 ここで気になるのが、俵籐太の百足退治の伝説である。
「魔除けの唾をつけた矢尻」に射抜かれたのは大百足、そして将門である。
ここにも将門=百足=タタラの図式が垣間見える。

 そして、首塚にはたくさんの蛙の像が配されている。
これは瀧夜叉姫の変化したものが蝦蟇であったので、それにちなむという説もある。
しかし、蛙もまた産鉄民を示すギミックであるのだ。

 他にも将門にまつわる様々な伝説のなかに、将門=タタラを結び付けるものは多い。
それだけではなく、将門ゆかりの神社・仏閣にもタタラのギミックが多く散在する。
現実問題として、将門と産鉄民族の繋がりを示す文献はない。
にも関わらず、この奇妙な附合は何であろうか?

 さらに項を改めて考えてみたい。
この項の補足として、瀧夜叉伝説を簡単に紹介しておこう。

 将門が討たれ、一族郎党は滅ぼされた。
しかし、難を逃れた将門の三女・五月姫は怨みを忘れなかった。
彼女は貴船神社に丑三つ参りをして、妖術を授かる。

 そして、瀧夜叉姫と名を変えて、相馬の城で朝廷転覆の乱を起こす。
朝廷は大宅中将光圀・山城光成に勅を下しこれを討伐する。
妖術対陰陽の激しい戦いの末、瀧夜叉は討たれて将門の元に昇天する。
この妖術合戦のおりに瀧夜叉が変じたものが大蝦蟇である。

2009年12月20日日曜日

平将門伝奇考・7 伝説Ⅵ

 将門が討たれた場面は、額に矢を受けた、あるいはこめかみに矢を受けたと描写される。
どちらでも同じようなものではないかと言われそうだが、こめかみとなると場合によっては状況が変わってしまう可能性があるように思う。
 
 正面の敵に対して、将門が横を向いていたことになるのだ。
無論、戦場での指揮のため、横を向いて指示したという事も考えられる。
だが、正面を向いて戦っていたならば・・・。
 この場合、横にいる人間が射た矢であるということになり、将門は味方の裏切りにより殺されたという想像が成り立つ訳で、そう考えると定説が根本から覆ってしまう。
無論、これは私の夢想・妄想であって根拠はない。

 この矢に関しても、何種類かの伝説がある。
一番有名なのは、朱雀天皇の命により下向した寛朝僧正が、成田山新勝寺にて祈祷を行い調伏にあたったというもの。 この祈祷により風向きが変わり、突風がおこり将門の馬が棹立ちになり、無防備になったために矢が命中したという。
ちなみに、将門の子孫や地元民にはいまだに成田山に参詣しない人も多いと聞く。

 俵籐太が魔除けの唾を塗った矢を射た。
この矢が、将門の弱点であるこめかみ又は眉間を射抜いたために、将門は倒されたという伝説もある。
この話には前日譚というべき話がある。

 都より下向する折に、俵籐太は琵琶湖の瀬田大橋を渡ろうとした。
ところが、瀬田大橋には長さ20丈(約60m)もの大蛇が横たわっているために誰も渡れない。
しかし、籐太は委細構わずこれを跨ぎ渡った。
すると、そこに美女が現れ、「自分は先ほどの大蛇である。 実は、棲みかの三上山に毎晩大百足が現れて、自分の娘を食べてしまう。 この大百足を退治出来る勇者を探すために、瀬田大橋に横たわり、肝の据わった人物を待っていた」と言う。

 籐太はこの願いを入れて、大百足退治に乗り出す。
そして、大蛇に教えられた通り、大百足の弱点である眉間に魔除けの唾を塗った矢を射てこれを滅ぼした。
実は、大蛇は琵琶湖の竜王の娘であり、この後籐太は琵琶湖湖底の竜宮で歓待を受け、宝物を貰ったと言う。

 このエピソードは、将門が討たれる場面と妙に符合する。
それは、魔除けの矢と眉間という表面上の事だけでない。
将門と百足には深い関係があるという考えがあるからだ。

 百足=将門。
次回は、これについて考察してみたい。

 

2009年12月19日土曜日

平将門伝奇考・6 伝説Ⅴ

 さて、首塚を巡る謎については、ここで一旦おいて、伝説の話に戻ろう。

 まずは、将門の首を巡る伝説だ。
京都市下京区に、「天慶年間平将門の首を晒した所也」と由緒書きのある小さな祠がある。
関東で討たれた将門の首は、塩漬けにされて運ばれ、この地で晒されたのであろうか。

 討たれた将門の首は、かっと目を見開き、俵藤太に喰らいつこうとしたしたという伝説がある。
また、京の都に運ばれた首は、晒されてもなお萎びるどころか、活き活きとしており、目を見開いたまま夜な夜な「私の身体はどこにあるのか。 ここに来い。 首をつないでもう一戦しようぞ!」と叫び続けたという。
そこで、歌人・藤六左近が呪の込められた歌を読むと、首はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。

 また、将門の首は、東国を目指して天空高く飛び去ったという伝説もある。
この首が途中で力尽きて地上に落下したとされ、各地に首塚伝承が伝わる。
その最も有名な場所が、千代田区の首塚である。

 「ならば、あの首塚の祟りはどういうことだ?」という疑問を論じるのは、後にして、この項を続けよう。

 この首塚についても「太平記」の記述によると、京都の七条河原で晒された首は、関東に残した愛人・桔梗を慕って飛び去り、現在の首塚がある場所に落下したという記述がある。
こちらは、怒り狂う首の話に比べて、かなりロマンチックである。

 この話には、現在、首塚の近くに、桔梗門や桔梗濠があるのはその名残であるという後日譚まであるのだから、良く出来た話ではある。
私としては、個人的な思い入れから、この伝説を支持しい気がする・・・。

 また、この伝説とは全く趣を異にするものもある。
こちらの将門は、その目に二つの瞳孔を持ち、全身は黒鉄、逆巻く髪で口からは言葉と共に火を吐く大男であった。
その身体はいかなる刃物も通さぬ魔人の如き存在であったという。

 こうなるともうミノタウロスのような怪物である。 (余談だが、このミノタウロスと将門は附合する部分が別にある、これは後に述べる)
この怪物・将門の弱点がコメカミであると、俵籐太と通じた桔梗御前が教えたのが原因で、将門が討たれたという伝説である。
ふむ、これでは「桔梗恋しさ」で将門の首が飛び去ることはないだろうなと思わされる話である。

 もっともこの首塚伝説というのは、将門オリジナルという訳ではなく、木曽義仲・楠正成・明智光秀など、非業の死をとげた人物にはつきもので、一説にはその数は全国で100基を越えると言われる。
蘇我入鹿などのように、首が飛び去り奈良高見峠に落下して塚が築かれたという伝説も多い。

 

2009年12月12日土曜日

平将門伝奇考・5 伝説Ⅳ

 さて、この首塚そのものが現代でも祟るのだという。
現代における将門怨霊伝説の基盤となっているのは、この都市伝説にも似た「事件」かも知れない。

 寛永14年(1637年)頃、それまでは海岸であった柴崎の地は埋め立てられ、首塚のあたりは大名屋敷が立ち並ぶ事になる。 
首塚は、酒井雅楽頭の屋敷の中庭に残された。

 その後、ここに将門稲荷神社が建てられ信仰されたのだが、1671年、この屋敷内で伊達安芸らが殺される。 いわゆる伊達騒動という事件であるが、これが将門の祟りであるとして恐れられた。

 明治時代には酒井邸は取り壊され、大蔵庁舎が建てられるのだが、首塚は祟りを畏れて取り壊される事なく残る。
やがて、関東大震災が起こり、この辺りは焼跡となる。 そして、その復興の整地の際に、件の石室が発見されることとなる。

 石室発掘後、塚は取り壊され池を埋め立てて平地として、ここに大蔵省の仮庁舎が建てられた。
発掘調査は大正12年末のことである。
その後、大正15年、大蔵大臣早速整爾が病死。
さらに、矢橋管材局課長他十数人が死亡。
政務次官武内氏他多数が仮庁舎で転倒して怪我人が続出する。

 まるでファラオの呪いを彷彿とさせるような出来事である。
これは、将門の呪いであるという噂が広まり、昭和3年、仮庁舎を撤去。
首塚に礎石を復元し慰霊祭が行われる。
祭主は神田神社社司平田盛胤氏であり、大蔵大臣三土忠造氏以下幹部関係者が拝礼している。

 さらに、第二次大戦後、米軍がこの地を整地して利用しようとした。
この時も、工事用のブルドーザーが突然転倒し、運転手の日本人が死亡した。
そして、塚の破壊は中止された。

 なおも異変は終わらない。
1961年、首塚の旧参道上に日本長期信用銀行が建てられるるのだが、二年後に塚に面した部屋の行員が次々に発病する。 そこで、神田神社の神職を招いてお祓いをしてもらった。
その後、塚に面した行員の机は窓側を向くか横向きにして、首塚に不敬にならぬよう配慮されたという。

 1970年、塚に隣接する三井物産が、この土地の買収を都に打診したところ、暗に祟りがあると言われこれをあきらめたという記事が朝日新聞に掲載されている。 
ちなみに当時の地価は一億八千万円であり、それほどの土地が怨霊伝説のために売れなかったという「事件」というようなコラムである。

 1973年、首塚を挟んだ二つのビルが新築工事を行い、丁重に供養をして工事に取り掛かったビルは無事故であったが、供養しなかったビルは地下工事中に工事員2名が死亡、同じ場所で怪我人が続出した。

 

 
 

2009年12月6日日曜日

平将門伝奇考・4 伝説Ⅲ

 平将門には伝説が多い。
これには、彼が活動した常陸を中心にしたもの、都を中心としたもの、江戸を中心としたもなどがあり、それぞれ成立過程の違いがある。
 さらに、これに後世の浄瑠璃や各種の物語の創作が加わる。
実体に比して、伝説は多用であり、膨大だ。

 また、現実的な一次資料が存在しないに等しいので、現実との比較は困難であり、さらに歴史の時期によって将門の評価が著しく変わる。
平将門の評価はイデオロギー論争であるとさえ言えるかも知れない。

 さて、将門伝説。
その全てを列挙することは不可能だし、私の手に余る作業でもある。
その主だったところを紹介するに留めたい。

 千代田区の江戸城の正門正面に将門の首塚がある。
ここには以前、神田神社があり、将門を主神として祀っていた。
創建は730年と言われる。

 神田神社は1606年に駿河台へ、そして1616年に現在の地へ移された。
しかし、その首塚だけは元の場所から移されることがなく、現在も大手町の超高層ビルの隙間に鎮座している。

 毎年9月22日には慰霊祭が行われ、普段でさえ献花が絶えることがない。
近年は我が敬愛する荒俣宏氏の「帝都物語」などの影響で、東京の守護神としての人気も高いようだが、慰霊祭も献花も、本来は祟りをおそれての事だったというのは有名な話である。

 討ち死にした将門の首は、京都に送られさらし首にされたという。
しかし将門の首は天空に舞い上がり、関東に向かって飛び去った。
これが力尽きて落下した場所が現在の首塚の場所であるという伝説がある。

 そして、茨城から逃れてこの地に移住していた将門の一族がこれを祀ったとも言われる。
首は、あるいは、この将門の一族の者が京都から持ち出し、この地に祀ったのかも知れない。
このあたりが妥当な線ではないだろうかと、私は考えている。

 明治政府は当初、この地に置いた大蔵省の敷地内に首塚を保存していた。
当時は将門塚と呼ばれていたようで、現在よりかなり規模の大きいものであったようだ。
そして、関東大震災の土地整備のおりにそこから石室と言われるものが発見されている。
これが将門の棺であったのかどうかは分からない。
棺は空っぽだったのである。

 石室には比較的近い時代に一度発掘された跡があったらしい。
政府に発掘の記録に残っていないので、これは明治以前の話であろう。
誰が、何の目的で発掘したのかは、謎のままである。

 ただ、ここに眠っていたものが将門の遺骨であるのなら、私の考えもまんざら見当はずれではないだろう。 
無論、真相は解らない。 
そして、それで良いのだ。
この記事は「伝奇考」なのだから。

2009年11月23日月曜日

平将門伝奇考・3 伝説-Ⅱ

 将門の死後、伝説は一人歩きを始める。
しかし、それについて私なりの紹介をする前に、この時代の背景に触れておきたい。
将門伝説を考える上で、この事を頭に置いておく方が解りやすい部分があると思うからだ。

 まず、この時代にはまだ「武士」という階級は存在しない。
それどころか、朝廷直属の軍というものすら存在しない。
征夷大将軍の率いる軍にせよ、それは任命された貴族の私兵である。
この時代の軍人・武士というのは、全てが私兵であった。

 将門は、都にいる当時、藤原忠平の家臣となっているが、そういう意味では、彼は忠平の私兵であったとも言える。

  軍事警察とも言うべき、検非違使という制度はあった。 この多くは、罪人・非人などからなり、言わば同じ立場の者を使って罪人の探索・捕縛にあてていたのだ。
厳密な意味での戦闘集団・軍隊は保有していない。

 では、賊徒の反乱に対してはどうするのか?
征夷大将軍などを任命する。 任命された貴族が自力で軍を組織し、これを賄う。
貴族は、荘園の警護などのため、私兵を有している。 これとて、普段は畑仕事などをしている者が大多数なのだが、これがこの時代の武士であるとも言える。

 後は、諸寺社に御敵調伏の祈祷をさせる。 後には安倍晴明などの陰陽師もこの任にあたる事になる。 御敵=鬼であるから、祈祷によりこれを打ち破れるのである。
現代の常識からすると、無茶苦茶であるが、これがこの時代の政治なのだ。

 征夷大将軍に任じられても、現地に赴かない場合すらある。 在京のまま指示する。 実際は、部下が現地で戦う。 戦費は、貴族が賄うのだが、戦場における略奪の自由が軍人の報酬として認められていた。 無論、貴族とて略奪による恩恵に預かる。 さらに、没収した土地、荘園なども私有財産となる。
勅命による山賊のようなもの、というと言い過ぎであろうか?

 武士の地位は低い。
この時代には、「人」と認められるのは六位以上の貴族のみであり、それ以下は卑しき者である。 場合によっては、者=モノ=鬼と化す。

 東国は、都の貴族の荘園であり、地方豪族の荘園であった。 ここに暮らす人々は、常に収奪され、苦しい生活を余儀なくされていたであろう。 ただ、東国は都から離れているために、一種独立の気風もあったであろう。

 こういう時代背景の基に将門の乱が起こる。
これに、喝采を送る人々も多かったであろうと思われる。

 さらに、将門の若き日について少し触れておきたい。
地方豪族の息子であり、その祖は天皇に連なる家系の出とされる。
膂力に優れ、優しい子供であったとも伝えられる。

 この時代、地方豪族の子息は京に上り官位を授けられるべく運動するのが常であった。
これは名誉というより、地方支配の実利を伴う任官を求めるという意味合いである。
将門は、藤原忠平の家臣として、その人がらを認められながらも、望んだ地位・検非違使の助を与えられず、一介の衛士にしかなれなかった。

 父は鎮守府将軍であり、桓武天皇の五世でありながら、その地位は低く、12年ほどの在京も空しく故郷に引き揚げている。
少年時代は優れた人間として自他共に認める男にとって、これは反骨心を養うに足るエピソードであっただろう。


2009年11月22日日曜日

平将門伝奇考・2 伝説

 さて、将門の乱の発端は、武蔵国権守(ごんのかみ、長官の副官であるが、長官は領地に赴かず京に留まるものであるため、事実上の長官にあたる)興世王及び介(これも同じような立場)源経基と郡司・武蔵武芝との対立に将門が仲裁に入った折の事件である。

 興世王と武芝は和解を受け入れたのだが、その一方で武芝の兵は経基の屋敷を包囲した。 これを将門・興世王・武芝の共謀であると誤解した経基は都に逃げ帰り、朝廷に謀反の訴えを起こす。
これは、常陸・武蔵など五か国の国府の証明により取り下げられる事になる。

しかしその後、罪人・藤原玄明が将門に庇護を求めた折に、これを匿った将門は、引き渡しの要求に応じようとはせず、ついに常陸国府との争いに発展する事になる。
そして、将門は常陸国府を襲撃する。

 藤原玄明を庇った理由は不明。 縁などはおそらくあるまい。 義侠心であったのかも知れない。 あるいは、この国の体制に不満を募らせていたのかも知れない。 その理由は伝えられていない。
 これが、反乱の幕開けとなった。

 そして、ここからは伝説の部類になる。

 常陸国府軍を破った将門は、その頃彼の幕僚となっていた興世王の「一国を討つも坂東を占拠するも罪は同じである」という言を入れ、上野国・下野国と次々に国府を陥落させる。
この時に、将門の前に八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れ神がかり神託を告げる。
「朕が位を陰子(おんし)平将門に授け奉る」

 八幡神=応神天皇が、皇位を譲るという神託である。
こうして、将門は新皇を名乗る事になるのである。
そして、関八州の国司を任官する。

 この報告を受けた朝廷は、諸社・寺に調伏の祈祷を命じ、参議・藤原忠文を征東大将軍に任ずる。
関東では、平貞盛が藤原秀郷(俵の籐太)と共に4000人の軍勢を集め、対将門戦に備えていた。

 これに対し、将門側は兵を一時帰国させており、1000人足らずの軍勢、であったが、先制攻撃を加えるべく発進。 敵を発見した副将藤原玄茂軍は独断でこれを攻撃するが敗退。
追撃する貞盛・秀郷軍は下総川口にて将門軍と開戦し、撤退させる。

 本拠地での起死回生の戦いも、藤原為憲らの軍勢を加え、さらに強大になった貞盛軍の焼き討ちにより破れた将門は、僅か400人の手勢を率いて北山に陣を敷いて援軍を待つ。
しかし、これを先に敵に察知され、ついに最後の決戦に討って出る。

 さて、時は2月14日午後3時、圧倒的な連合軍に対して僅か400人の将門軍の戦いが開始された。
北からの強風を背にした将門軍はその矢に勢いがあり、対する連合軍の矢は力を失う。 これに勢いを得た将門軍は敵方の奇襲も撃破し、その多くを敗走させる。

 残る敵は僅かに300人。 悠々と自軍に引き返さんとする将門。
ここで風向きが劇的に変わる。 京の祈祷の力によると伝説は言う。

 反撃に転じた連合軍に対し、将門は先頭に立ち鬼神の如く戦う。
突風に驚き棹立ちになった馬の背に乗る将門の額に、一本の矢が突き立つ。

伝説では、魔人と化した将門の呪力を破るために、矢尻に自らの唾を塗った魔封じの法を使った俵藤太の放ったものであると言う。
また、一方では、京より呪法により飛来した矢であるとも言われる。

 天慶3年2月14日。 平将門は首を討たれ、彼の壮大な夢が消えた。
首は京に運ばれ、獄門として晒される。
同時期に瀬戸内海で起こった藤原純友の乱と合わせ、これを「承平天慶の乱」と呼ぶ。

2009年11月15日日曜日

平将門伝奇考・1

  序章

 江戸・東京の中心地、千代田区大手町一丁目一番一号に、平将門の首塚がある。
これは、江戸城の正面玄関、大手門の正面に位置する。
 現在もなおこれを移転しようとすると、不思議なことに事故が起こるという。
祟りがあるので、移転出来ない。 これはよく聞く話だ。
 しかし、家康が江戸城を中心とした、江戸の町を建設したころには、江戸の地はまだ、その多くが湿地帯であり、言わば開発前は未開の土地だった。
城を築く場所がなかった訳ではない。
江戸城は、首塚の正面にわざわざ築かれたのだ。
 当時のこの土地の人々に崇められていたとはいえ、朝廷の武人の頭領である征夷大将軍・家康が、朝敵とされた平将門の首塚を幕府の本拠地の正面に据えた都市建設とは、いったい何であったのだろう?
 江戸の呪術的結界の要に使われた。
そういう説だけでは説明しきれない部分があるように思う。

 平将門とは何であったのか?
将門の生涯、伝説、そして日本の三大怨霊と呼ばれるに至る経緯。
これらは、実に興味深い。

 今回は、これらを私なりに考えてみたいと思います。


 1、平将門の略歴

 生誕。 不詳。
各種の説があるが、880年頃であろうと思われる。

 通称は、相馬小次郎など。
平氏の姓を賜った高望王の三男・平良将の子。
平良将は、下総国佐倉を領地とする鎮守府将軍であり、将門は桓武天皇の5世であるとされる。

 15・6歳のころ、平安京にのぼり、藤原忠平と主従関係を結ぶ。
しかし、人がらを認められながらも、低い官位しか与えられなかった。
12年ほどの在京の後、故郷に帰る。
 その帰路に、叔父・平国香の襲撃にあい、これを撃退する。
これは、領地を巡る一族間の抗争の一環であり、この後この抗争が「平将門の乱」へと繋がって行く。

 この後、この抗争は激化・拡大されてゆき、天慶2年、常陸国府との戦いでこれを破り、印綬を没収。
これにより、朝廷への反乱と見なされる。

 この時、側近の興世王の「一国を討てりといえども公の責め軽からじ。 同じく坂東を虜掠して、暫く気色を聞かむ」という言を入れ、将門は関東一円を手中に収め「新皇」を名乗る。

 謀反人となった将門討伐に参議藤原忠文を征夷大将軍とする軍が派遣され、天慶3年2月14日、将門は討ち死にし、この乱は終わる。

 没年、天慶3年2月14日。(940年3月25日)