2009年10月24日土曜日

河童・4

                        (蚩尤)

 4)川・水の神系

 川は多くの場合、村と外界の境であり、此岸と彼岸を隔てるものである。 三途の川などというものもまた、ここからの連想であろう。 多くの場合、村の結界とも言える「賽の神」・道祖神などの外に川がある。
 この世の理の境界にある川に現れた怪異。 それが見知らぬ、あるいは奇異な生き物であれ、異邦人であれ、人はそれを分類・区分し情報処理しなくてはならない。
未知なる情報は、ここにおいて総称・類型としての「河童」というラベルを生み出す。

 怪異は「河童」であるという分類が確定された後に、その来歴をたどる事が可能となる。
「河童」という因果の「果」があればこそ、その「因」を求めうるのである。

 そしてまた、神も「因」であり、その「因」を産むのは「果」である。 神とは「現象」の子であり、その誕生をもって「現象」の親となる絶対矛盾を孕んだ存在という事も出来よう。
「河童」・妖怪は神の零落した姿であると柳田国男は述べている。

 さて、河童は、「かわわっぱ」であり、川にいる童子の如き姿の怪である。 この起源は、死産の子であり、間引かれた子であると述べた。 さらに、童形とは「かむろ」と呼ばれる結髪しない髪型であり「おかっぱ」と呼ばれる姿である。

 童子は幼名であり、本来の名前はまだ無い。 成人して初めて名前が与えられ、社会の一員であると認められる。 即ち、「童」である「河童」は社会の一員に加えられぬ存在である事を意味する。
籍の無い民である。

 河童は、かわうそであり亀であり、猿である。
さらに、童子であり川の民・山の民である。
そしてなお、魍魎・河伯・水虎など、様々な妖怪・神が融合した存在である。

 折口信夫は「ひょうすべ(河童)は穴師坐兵主神(あなしにいますひょうずのかみ)の末であろう」と述べている。
奈良県の穴師坐兵主神社には相撲神社もまた祀られている。

 「河童」は相撲が好きというのにはここにも理由がある。
相撲の祖と言えば野見宿禰であり、垂仁天皇に仕えたとされる。
天皇の墓に大勢の殉死者を伴う代わりに、埴輪を埋葬することを提案し、土師連(はじのむらじ)の姓を賜った。 その後、土師氏は代々埴輪製造に関わり、葬礼・造墓に関わった氏族である。

 河童を使役したと言われる菅原道真はこの子孫であり、三代前には土師氏を名乗っていた。 葬儀に関わる氏族でありながら賤職である故に、政治の世界に進出した際の改名であるという。 余談であるが、この出自が後に道真の悲劇に繋がって行く事になるのであろう。
ともあれ、ここで河童と菅原道真が繋がる事になる。

 さて、「ひょうすべ」の「兵主神」は中国神話の「蚩尤(しゆう)」であるという説がある。
蚩尤は神農神の子孫であり、伝説の黄帝と争った暴神である。 人の身体に牛の蹄、牛の角と四つの目を持ち手足が六本づつあるという。
 相撲が好きな軍神であり、産鉄・鍛冶神でもある。 蹈鞴の民を含む河童の祖にふさわしい神ではあろう。 ちなみに、かの魔猿・孫悟空を蚩尤になぞらえた説もあるので、こちらも河童=猿と結びついて面白い。

 この蚩尤=兵主を日本に伝えたのが新羅からの渡来民・秦氏であるとされる。 秦氏は技術集団でもあり、製鉄技術などを含む多くの技術をもたらした。 この「技術」には宗教なども含まれるが、ここではその事に触れずに先を急ごう。

 蚩尤は暴風雨の神であり、雷神・道真との結びつきはここにも現れる。 天神・道真の別称は「天満大自在天神」であり、インドのシヴァ神の別称である。 シヴァは暴風雨の化身であり、牛の守護神である。
これは、また、スサノオとも繋がって行く。 全てが混合され、混沌と化す。
そして、全ての情報は混同され、神はやがてその出自を忘れられた末に零落して妖怪となる。


 駆け足で、河童についての考えを述べさせていただきましたが、河童は複雑であり、けして語り尽くせぬ妖怪であるのです。 いつかまた、改めて補足したいと考えています。
 さらに、蛇足ですが、これは「川の怪」としての河童という「説明のメカニズム」とでも言うべきものに対する考察であり、「生物」「存在」としての河童について述べたものではありません。
つまり平たく言えば、「河童の目撃談」などを否定しないよ、という事です。

 UMAとしての河童。 これは、出来ればいてもらいたい。 いるならば、第一種接近遭遇などを経験してみたいという気持ちは持っていたい。 そのような思いを失いたくはないと考えております。

�再

2009年10月18日日曜日

河童・3

                      (山童・やまわろ)

                      (ひょうすべ)


 3) 山の民・川の民系

 動物系の補足にもなるが、平安時代の「怪異」に対する考え方を述べておこう。
「本朝世紀」という、当時の史書によれば、寛和二年(986年)2月16日、御所の太政官において一匹の蛇が発見される。 ただ一匹の蛇が迷い込んだというだけの話である。 しかし、彼らはこの一件を怪異と見て、その吉凶を陰陽師・安倍晴明に占わせている。 同月の27日には、鳩が迷い込み、これを怪異と見て、同じく占ったとある。
 このような記録は枚挙にいとまがない。 動物の常ならざる行動は、それだけで怪異であり、吉凶を占うべきものであると考えられていた事が見て取れる。
 本来、里と異界の境界線である川に、普段見慣れないものがいた。 これは、それだけで尋常ならざる出来事であると考えられたのである。 「本朝世紀」における貴族階級の考えが、即庶民階級の考えでもあったと述べるつもりはないが、この事は頭においておく必要がある。

 ならば、河原に境界の外の人間がいた場合はどうか?
これが、川の民が転じて河童になるメカニズムの根源だ。

 九州地方には、河童の一種である「ひょうすべ」がいる。
かつて太宰府天満宮境内に「兵主部」(ひょうすべ)を祀る祠がある。 菅原道真が河童を助けてやった事があって、その礼に「菅原」の姓の者には害をなさないと約定したという話にちなむものである。
 以来、河童の難に出会った折には「すがわら」と唱えればこれを逃れると言う。 類似の話は各地に残っている。
 佐賀県の武雄市・潮見神社は河童の主人であるという渋江氏を祀っている。 渋江氏は菅原一族の末裔で、祖先に兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸という人物がいる。 彼は工匠の奉行であり、当時の工匠が人手を欲しがったので、多数のわら人形をこしらえ、これに祈祷により命を与え春日社の工事に使役した。 完成後にわら人形を川に捨てたのが河童の始まりであるという伝承がある。
同様な伝承は、左甚五郎やその他の逸話として多く残されている。

 折口信夫説では、ひょうすべは「兵主神」であろう、平安時代の『延喜式』神名帳には、式内社としてこの神を祀る神社が十九社ほど載っている。 そのうち但馬には七社も集中しており、但馬は新羅から渡来した天日槍(あまのひほこ)の本拠地であり、兵主神もまた渡来人が信仰していた神であろう、とある。
ひょうすべは神の零落した姿ということになるのだが、これについては項を改めて考察したい。

 ここで、注目したいのは、渡来民などの治水技術者集団であり、彼らは当初こそ重要な地位にあるものとして扱われたが、時代を下るにつれて、単に使役される者という立場に追い込まれて行く。
ひょうすべ=河童の原型の一つには、門別帳にすら籍のない彼らが使役され、棄てられたという伝承が関わっていると思える。

 さらに、安倍晴明が一条戻り橋の下に置いた式神なども、河童の原型の一つであろう。 
境界の境に住む人々、瀬鰤する民・サンカなどがこれにあたる。
 沖浦和光氏は、日本の歴史に現れる漂泊民を以下の六項目に分類している。
① 乞食体の僧形で諸国を遍歴する「遊行者」。
②芸能の民であり、祭礼や門付け芸の「遊芸民」。
③「香具師」「世間師」。
④船で暮らす「家船」と呼ばれる漁民。
⑤木地屋・蹈鞴師・炭焼きなどの山の民。
⑥山野河川で瀬鰤り(野宿)しながら、川魚漁や竹細工などで生計を立てる「サンカ」。

 全てが無宿人であり、戸籍を持たない「名前のない民」である。
晴明などは、情報収集や情報戦略に①②③などを使ったのではないだろうか。
無名であり、籍がなく、「公に存在を認められぬ民」こそ、姿の見えぬ式神の正体であろうと考える。
そして、式神もまた、時代を下って河童と混同されて行ったのであろう。

 ⑤の蹈鞴師や⑥のサンカなどは、夏は川に降りて川童・河童となり、冬は山に戻り山童となるという、河童の生態と生活パターンを同じくする。
蹈鞴は冬場に産鉄業を営み、夏場にはその一部が田畑の仕事などに従事する。
サンカは、夏場に川魚漁をし、冬場に山で竹細工などを行う。

 時に於いて彼らは理不尽な扱いを受けたであろう。 あるいはささいな理由で殺傷される事もあったかも知れない。 歴史が勝者によってのみ作られるものである以上、勝者の罪は常に転化される。 差別され、虐げられたのは、彼らが人ではなく河童であったからと伝承される所以である。

 追記すれば、サンカがスッポンや亀を背負って歩く姿を描くならば、甲羅があると誤認する場合もあろう。 あるいは、彼らが売り歩く笊などを背負う姿もまた、画にすれば甲羅のように見えるかも知れない。

 河童は多くのものが混同されているので、ここに記した事はその一部に対する考察に過ぎないが、ここに於いても、河童の起源は悲しい・・・。

2009年10月10日土曜日

河童・2



 2)の動物形体については、一般的に「河童」と言われた場合に想像する、亀や蛙を連想させる形体の他に、猿に似た形態が知られる。
 これは全身が毛に覆われており、牙が生えていたり甲羅が無いものが多いようだ。
えんこ、かわうそ、ひょうすべ、川童、山童、キジムナーなど、全国的分布を見ても、甲羅を背負った亀形体より、実際にはこちらの方が圧倒的に多い。
 頭に皿、背中に甲羅という、形体が定着したのは、江戸中期以降で、これ以降に徐々に河童のイメージが統一されて行ったというのが実情であろう。
 これには、絵草紙や浮世絵などが、徐々に庶民の間に浸透して行った過程との関連性があると考えるのだが、今の段階では検証していないので想像の域を出ない。

 折口信夫によれば、「河童の頭の皿は食物を乗せるものであることから、力の象徴であろうと考えられる」、とある。
頭上に皿を捧げ持つと解すれば、河童は供物を捧げる者と解する事も可能であり、これについては後に改めて述べたいと思う。

 甲羅に関しても、古い文献によれば、これが蓑であったり、甲羅を背負っている場合も見受けられる。
甲羅を紐で吊るしているのだが、これは「カメ釣り」の行商の図であり、蓑や竹細工もカメ釣り同様に「サンカ」の職業と密接な関係がある。 これらについても、後に述べたいと思う。 この項では、動物系の紹介に止まろう。

 甲羅系は、比較的その歴史が浅く、キュウリが好きという以外にはあまりその生態が伝えられていない。 あえて言うなら、絵師が亀・スッポンなどからの連想により描いたのが始まりかも知れない。
雁木小僧などがこの形体に近いが、これも江戸時代の創作である。
あるいは、甲羅や蓑を背負う画が変形した結果とも考えられる。

 猿型は、和漢三才図会に「水獺(すいだつ)」の記述が見え、これには「獱獺(ひんだつ)つまり獺(かわうそ)の大きいものである。 頸は馬のようで身体は蝙蝠(こうもり)に似ている。 あるいは獺に雌がなく、猨を雄とする」などとある。 河童の起源のひとつはかわうそである。

 「猨」とは中国や東南アジアの手長猿のことであるが、日本には存在しないので、日本猿の姿をこれに見立てたものであろう。 「手長」が盗みを意味し、ここから「猿猴する」=盗むという言葉が生まれたという説もあり、河童の手が切られる話が多いことを考え併せると興味深い。
ともあれ、河童の起源のひとつは猿である。 

 河童は、他に蛙、鼈(すっぽん)、蛟、山猫などの妖怪が融合した存在であり、亀型・猿型というのも、実はその一部に過ぎない。 ただ、現在一般に想像される代表的な形体は、この二つに集約されるであろう。