2009年12月27日日曜日

平将門伝奇考・9 タタラとの符合Ⅱ

 平将門に関しては、一次資料と呼べるような文献がほぼ存在しない。
唯一、「将門記」が存在するのだが、これとて散逸した部分もあり、さらに現存する二冊の写本にも、部分的に記述の相違がある。
さらには、「将門記」自体が、12世紀に書簡をまとめたものであるとする説もある。
その他には、「太平記」などに記された二次資料が存在するのみである。
そして、これらの中には、将門とタタラの関係を暗示する言葉はあっても、直接の関わりを示す文章はない。

 しかし、将門の放牧場が調査された1981年に興味深い発見があった。
放牧場の南端から、二基の製鉄炉が出土したのである。
鉄のこびりついた炉壁、数トンの鉄かす、さらに蹈鞴に使われるふいごの破片が見つかったのだ。

 それ以前から、伝説や縁の神社・仏閣の関係から、将門とタタラの符合については、多くの人が指摘してきたのだが、実証は不可能のように思われてきた。
しかし、関係はあったのだ。

 そして、この事は実に多くの意味を持ち、歴史・伝説の謎の部分を解き明かす鍵となる。
その事については、最後にまとめとして述べたいと思う。
次は、将門にまつわる神社・仏閣について書こう。
そして、江戸の鬼門封じ・風水との関わりについて書いた上で、私の考えをまとめたいと思う。

2009年12月25日金曜日

平将門伝奇考・8 タタラとの附合

 百足は産鉄民との関わりが深い。
金鉱脈に群がっていたという伝承も多い。
例えば、後年、武田信玄は金鉱などの掘削作業を主とする者たちを、戦場での土木工作専門の部隊として組織した。
この部隊は百足衆と呼ばれた。

 百足は金属を好むと考えられていたのだ。
あるいは、坑道から鍬などを担いで、ぞろぞろと作業員が出て来る姿が百足を連想させたのかもしれない。

 将門が矢を受けた部分には諸説あり、そのひとつに「片目を射抜いた」というものがある。
「片目」もまた、タタラを示すキーワードである。
常に同じ方の目で蹈鞴の炎を覗き込む彼らは、一方の目を失明する事が多かったからである。
さらに、同じ足で鞴を踏み続ける結果、片脚が不自由になる者も多かった。
片目・片脚はタタラを示すキーワードだったのだ。

 この「片目を射抜かれた」という伝説は、将門=タタラという図式を意識する者の創作であろう。

 ここで気になるのが、俵籐太の百足退治の伝説である。
「魔除けの唾をつけた矢尻」に射抜かれたのは大百足、そして将門である。
ここにも将門=百足=タタラの図式が垣間見える。

 そして、首塚にはたくさんの蛙の像が配されている。
これは瀧夜叉姫の変化したものが蝦蟇であったので、それにちなむという説もある。
しかし、蛙もまた産鉄民を示すギミックであるのだ。

 他にも将門にまつわる様々な伝説のなかに、将門=タタラを結び付けるものは多い。
それだけではなく、将門ゆかりの神社・仏閣にもタタラのギミックが多く散在する。
現実問題として、将門と産鉄民族の繋がりを示す文献はない。
にも関わらず、この奇妙な附合は何であろうか?

 さらに項を改めて考えてみたい。
この項の補足として、瀧夜叉伝説を簡単に紹介しておこう。

 将門が討たれ、一族郎党は滅ぼされた。
しかし、難を逃れた将門の三女・五月姫は怨みを忘れなかった。
彼女は貴船神社に丑三つ参りをして、妖術を授かる。

 そして、瀧夜叉姫と名を変えて、相馬の城で朝廷転覆の乱を起こす。
朝廷は大宅中将光圀・山城光成に勅を下しこれを討伐する。
妖術対陰陽の激しい戦いの末、瀧夜叉は討たれて将門の元に昇天する。
この妖術合戦のおりに瀧夜叉が変じたものが大蝦蟇である。

2009年12月20日日曜日

平将門伝奇考・7 伝説Ⅵ

 将門が討たれた場面は、額に矢を受けた、あるいはこめかみに矢を受けたと描写される。
どちらでも同じようなものではないかと言われそうだが、こめかみとなると場合によっては状況が変わってしまう可能性があるように思う。
 
 正面の敵に対して、将門が横を向いていたことになるのだ。
無論、戦場での指揮のため、横を向いて指示したという事も考えられる。
だが、正面を向いて戦っていたならば・・・。
 この場合、横にいる人間が射た矢であるということになり、将門は味方の裏切りにより殺されたという想像が成り立つ訳で、そう考えると定説が根本から覆ってしまう。
無論、これは私の夢想・妄想であって根拠はない。

 この矢に関しても、何種類かの伝説がある。
一番有名なのは、朱雀天皇の命により下向した寛朝僧正が、成田山新勝寺にて祈祷を行い調伏にあたったというもの。 この祈祷により風向きが変わり、突風がおこり将門の馬が棹立ちになり、無防備になったために矢が命中したという。
ちなみに、将門の子孫や地元民にはいまだに成田山に参詣しない人も多いと聞く。

 俵籐太が魔除けの唾を塗った矢を射た。
この矢が、将門の弱点であるこめかみ又は眉間を射抜いたために、将門は倒されたという伝説もある。
この話には前日譚というべき話がある。

 都より下向する折に、俵籐太は琵琶湖の瀬田大橋を渡ろうとした。
ところが、瀬田大橋には長さ20丈(約60m)もの大蛇が横たわっているために誰も渡れない。
しかし、籐太は委細構わずこれを跨ぎ渡った。
すると、そこに美女が現れ、「自分は先ほどの大蛇である。 実は、棲みかの三上山に毎晩大百足が現れて、自分の娘を食べてしまう。 この大百足を退治出来る勇者を探すために、瀬田大橋に横たわり、肝の据わった人物を待っていた」と言う。

 籐太はこの願いを入れて、大百足退治に乗り出す。
そして、大蛇に教えられた通り、大百足の弱点である眉間に魔除けの唾を塗った矢を射てこれを滅ぼした。
実は、大蛇は琵琶湖の竜王の娘であり、この後籐太は琵琶湖湖底の竜宮で歓待を受け、宝物を貰ったと言う。

 このエピソードは、将門が討たれる場面と妙に符合する。
それは、魔除けの矢と眉間という表面上の事だけでない。
将門と百足には深い関係があるという考えがあるからだ。

 百足=将門。
次回は、これについて考察してみたい。

 

2009年12月19日土曜日

平将門伝奇考・6 伝説Ⅴ

 さて、首塚を巡る謎については、ここで一旦おいて、伝説の話に戻ろう。

 まずは、将門の首を巡る伝説だ。
京都市下京区に、「天慶年間平将門の首を晒した所也」と由緒書きのある小さな祠がある。
関東で討たれた将門の首は、塩漬けにされて運ばれ、この地で晒されたのであろうか。

 討たれた将門の首は、かっと目を見開き、俵藤太に喰らいつこうとしたしたという伝説がある。
また、京の都に運ばれた首は、晒されてもなお萎びるどころか、活き活きとしており、目を見開いたまま夜な夜な「私の身体はどこにあるのか。 ここに来い。 首をつないでもう一戦しようぞ!」と叫び続けたという。
そこで、歌人・藤六左近が呪の込められた歌を読むと、首はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。

 また、将門の首は、東国を目指して天空高く飛び去ったという伝説もある。
この首が途中で力尽きて地上に落下したとされ、各地に首塚伝承が伝わる。
その最も有名な場所が、千代田区の首塚である。

 「ならば、あの首塚の祟りはどういうことだ?」という疑問を論じるのは、後にして、この項を続けよう。

 この首塚についても「太平記」の記述によると、京都の七条河原で晒された首は、関東に残した愛人・桔梗を慕って飛び去り、現在の首塚がある場所に落下したという記述がある。
こちらは、怒り狂う首の話に比べて、かなりロマンチックである。

 この話には、現在、首塚の近くに、桔梗門や桔梗濠があるのはその名残であるという後日譚まであるのだから、良く出来た話ではある。
私としては、個人的な思い入れから、この伝説を支持しい気がする・・・。

 また、この伝説とは全く趣を異にするものもある。
こちらの将門は、その目に二つの瞳孔を持ち、全身は黒鉄、逆巻く髪で口からは言葉と共に火を吐く大男であった。
その身体はいかなる刃物も通さぬ魔人の如き存在であったという。

 こうなるともうミノタウロスのような怪物である。 (余談だが、このミノタウロスと将門は附合する部分が別にある、これは後に述べる)
この怪物・将門の弱点がコメカミであると、俵籐太と通じた桔梗御前が教えたのが原因で、将門が討たれたという伝説である。
ふむ、これでは「桔梗恋しさ」で将門の首が飛び去ることはないだろうなと思わされる話である。

 もっともこの首塚伝説というのは、将門オリジナルという訳ではなく、木曽義仲・楠正成・明智光秀など、非業の死をとげた人物にはつきもので、一説にはその数は全国で100基を越えると言われる。
蘇我入鹿などのように、首が飛び去り奈良高見峠に落下して塚が築かれたという伝説も多い。

 

2009年12月12日土曜日

平将門伝奇考・5 伝説Ⅳ

 さて、この首塚そのものが現代でも祟るのだという。
現代における将門怨霊伝説の基盤となっているのは、この都市伝説にも似た「事件」かも知れない。

 寛永14年(1637年)頃、それまでは海岸であった柴崎の地は埋め立てられ、首塚のあたりは大名屋敷が立ち並ぶ事になる。 
首塚は、酒井雅楽頭の屋敷の中庭に残された。

 その後、ここに将門稲荷神社が建てられ信仰されたのだが、1671年、この屋敷内で伊達安芸らが殺される。 いわゆる伊達騒動という事件であるが、これが将門の祟りであるとして恐れられた。

 明治時代には酒井邸は取り壊され、大蔵庁舎が建てられるのだが、首塚は祟りを畏れて取り壊される事なく残る。
やがて、関東大震災が起こり、この辺りは焼跡となる。 そして、その復興の整地の際に、件の石室が発見されることとなる。

 石室発掘後、塚は取り壊され池を埋め立てて平地として、ここに大蔵省の仮庁舎が建てられた。
発掘調査は大正12年末のことである。
その後、大正15年、大蔵大臣早速整爾が病死。
さらに、矢橋管材局課長他十数人が死亡。
政務次官武内氏他多数が仮庁舎で転倒して怪我人が続出する。

 まるでファラオの呪いを彷彿とさせるような出来事である。
これは、将門の呪いであるという噂が広まり、昭和3年、仮庁舎を撤去。
首塚に礎石を復元し慰霊祭が行われる。
祭主は神田神社社司平田盛胤氏であり、大蔵大臣三土忠造氏以下幹部関係者が拝礼している。

 さらに、第二次大戦後、米軍がこの地を整地して利用しようとした。
この時も、工事用のブルドーザーが突然転倒し、運転手の日本人が死亡した。
そして、塚の破壊は中止された。

 なおも異変は終わらない。
1961年、首塚の旧参道上に日本長期信用銀行が建てられるるのだが、二年後に塚に面した部屋の行員が次々に発病する。 そこで、神田神社の神職を招いてお祓いをしてもらった。
その後、塚に面した行員の机は窓側を向くか横向きにして、首塚に不敬にならぬよう配慮されたという。

 1970年、塚に隣接する三井物産が、この土地の買収を都に打診したところ、暗に祟りがあると言われこれをあきらめたという記事が朝日新聞に掲載されている。 
ちなみに当時の地価は一億八千万円であり、それほどの土地が怨霊伝説のために売れなかったという「事件」というようなコラムである。

 1973年、首塚を挟んだ二つのビルが新築工事を行い、丁重に供養をして工事に取り掛かったビルは無事故であったが、供養しなかったビルは地下工事中に工事員2名が死亡、同じ場所で怪我人が続出した。

 

 
 

2009年12月6日日曜日

平将門伝奇考・4 伝説Ⅲ

 平将門には伝説が多い。
これには、彼が活動した常陸を中心にしたもの、都を中心としたもの、江戸を中心としたもなどがあり、それぞれ成立過程の違いがある。
 さらに、これに後世の浄瑠璃や各種の物語の創作が加わる。
実体に比して、伝説は多用であり、膨大だ。

 また、現実的な一次資料が存在しないに等しいので、現実との比較は困難であり、さらに歴史の時期によって将門の評価が著しく変わる。
平将門の評価はイデオロギー論争であるとさえ言えるかも知れない。

 さて、将門伝説。
その全てを列挙することは不可能だし、私の手に余る作業でもある。
その主だったところを紹介するに留めたい。

 千代田区の江戸城の正門正面に将門の首塚がある。
ここには以前、神田神社があり、将門を主神として祀っていた。
創建は730年と言われる。

 神田神社は1606年に駿河台へ、そして1616年に現在の地へ移された。
しかし、その首塚だけは元の場所から移されることがなく、現在も大手町の超高層ビルの隙間に鎮座している。

 毎年9月22日には慰霊祭が行われ、普段でさえ献花が絶えることがない。
近年は我が敬愛する荒俣宏氏の「帝都物語」などの影響で、東京の守護神としての人気も高いようだが、慰霊祭も献花も、本来は祟りをおそれての事だったというのは有名な話である。

 討ち死にした将門の首は、京都に送られさらし首にされたという。
しかし将門の首は天空に舞い上がり、関東に向かって飛び去った。
これが力尽きて落下した場所が現在の首塚の場所であるという伝説がある。

 そして、茨城から逃れてこの地に移住していた将門の一族がこれを祀ったとも言われる。
首は、あるいは、この将門の一族の者が京都から持ち出し、この地に祀ったのかも知れない。
このあたりが妥当な線ではないだろうかと、私は考えている。

 明治政府は当初、この地に置いた大蔵省の敷地内に首塚を保存していた。
当時は将門塚と呼ばれていたようで、現在よりかなり規模の大きいものであったようだ。
そして、関東大震災の土地整備のおりにそこから石室と言われるものが発見されている。
これが将門の棺であったのかどうかは分からない。
棺は空っぽだったのである。

 石室には比較的近い時代に一度発掘された跡があったらしい。
政府に発掘の記録に残っていないので、これは明治以前の話であろう。
誰が、何の目的で発掘したのかは、謎のままである。

 ただ、ここに眠っていたものが将門の遺骨であるのなら、私の考えもまんざら見当はずれではないだろう。 
無論、真相は解らない。 
そして、それで良いのだ。
この記事は「伝奇考」なのだから。

2009年11月23日月曜日

平将門伝奇考・3 伝説-Ⅱ

 将門の死後、伝説は一人歩きを始める。
しかし、それについて私なりの紹介をする前に、この時代の背景に触れておきたい。
将門伝説を考える上で、この事を頭に置いておく方が解りやすい部分があると思うからだ。

 まず、この時代にはまだ「武士」という階級は存在しない。
それどころか、朝廷直属の軍というものすら存在しない。
征夷大将軍の率いる軍にせよ、それは任命された貴族の私兵である。
この時代の軍人・武士というのは、全てが私兵であった。

 将門は、都にいる当時、藤原忠平の家臣となっているが、そういう意味では、彼は忠平の私兵であったとも言える。

  軍事警察とも言うべき、検非違使という制度はあった。 この多くは、罪人・非人などからなり、言わば同じ立場の者を使って罪人の探索・捕縛にあてていたのだ。
厳密な意味での戦闘集団・軍隊は保有していない。

 では、賊徒の反乱に対してはどうするのか?
征夷大将軍などを任命する。 任命された貴族が自力で軍を組織し、これを賄う。
貴族は、荘園の警護などのため、私兵を有している。 これとて、普段は畑仕事などをしている者が大多数なのだが、これがこの時代の武士であるとも言える。

 後は、諸寺社に御敵調伏の祈祷をさせる。 後には安倍晴明などの陰陽師もこの任にあたる事になる。 御敵=鬼であるから、祈祷によりこれを打ち破れるのである。
現代の常識からすると、無茶苦茶であるが、これがこの時代の政治なのだ。

 征夷大将軍に任じられても、現地に赴かない場合すらある。 在京のまま指示する。 実際は、部下が現地で戦う。 戦費は、貴族が賄うのだが、戦場における略奪の自由が軍人の報酬として認められていた。 無論、貴族とて略奪による恩恵に預かる。 さらに、没収した土地、荘園なども私有財産となる。
勅命による山賊のようなもの、というと言い過ぎであろうか?

 武士の地位は低い。
この時代には、「人」と認められるのは六位以上の貴族のみであり、それ以下は卑しき者である。 場合によっては、者=モノ=鬼と化す。

 東国は、都の貴族の荘園であり、地方豪族の荘園であった。 ここに暮らす人々は、常に収奪され、苦しい生活を余儀なくされていたであろう。 ただ、東国は都から離れているために、一種独立の気風もあったであろう。

 こういう時代背景の基に将門の乱が起こる。
これに、喝采を送る人々も多かったであろうと思われる。

 さらに、将門の若き日について少し触れておきたい。
地方豪族の息子であり、その祖は天皇に連なる家系の出とされる。
膂力に優れ、優しい子供であったとも伝えられる。

 この時代、地方豪族の子息は京に上り官位を授けられるべく運動するのが常であった。
これは名誉というより、地方支配の実利を伴う任官を求めるという意味合いである。
将門は、藤原忠平の家臣として、その人がらを認められながらも、望んだ地位・検非違使の助を与えられず、一介の衛士にしかなれなかった。

 父は鎮守府将軍であり、桓武天皇の五世でありながら、その地位は低く、12年ほどの在京も空しく故郷に引き揚げている。
少年時代は優れた人間として自他共に認める男にとって、これは反骨心を養うに足るエピソードであっただろう。


2009年11月22日日曜日

平将門伝奇考・2 伝説

 さて、将門の乱の発端は、武蔵国権守(ごんのかみ、長官の副官であるが、長官は領地に赴かず京に留まるものであるため、事実上の長官にあたる)興世王及び介(これも同じような立場)源経基と郡司・武蔵武芝との対立に将門が仲裁に入った折の事件である。

 興世王と武芝は和解を受け入れたのだが、その一方で武芝の兵は経基の屋敷を包囲した。 これを将門・興世王・武芝の共謀であると誤解した経基は都に逃げ帰り、朝廷に謀反の訴えを起こす。
これは、常陸・武蔵など五か国の国府の証明により取り下げられる事になる。

しかしその後、罪人・藤原玄明が将門に庇護を求めた折に、これを匿った将門は、引き渡しの要求に応じようとはせず、ついに常陸国府との争いに発展する事になる。
そして、将門は常陸国府を襲撃する。

 藤原玄明を庇った理由は不明。 縁などはおそらくあるまい。 義侠心であったのかも知れない。 あるいは、この国の体制に不満を募らせていたのかも知れない。 その理由は伝えられていない。
 これが、反乱の幕開けとなった。

 そして、ここからは伝説の部類になる。

 常陸国府軍を破った将門は、その頃彼の幕僚となっていた興世王の「一国を討つも坂東を占拠するも罪は同じである」という言を入れ、上野国・下野国と次々に国府を陥落させる。
この時に、将門の前に八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れ神がかり神託を告げる。
「朕が位を陰子(おんし)平将門に授け奉る」

 八幡神=応神天皇が、皇位を譲るという神託である。
こうして、将門は新皇を名乗る事になるのである。
そして、関八州の国司を任官する。

 この報告を受けた朝廷は、諸社・寺に調伏の祈祷を命じ、参議・藤原忠文を征東大将軍に任ずる。
関東では、平貞盛が藤原秀郷(俵の籐太)と共に4000人の軍勢を集め、対将門戦に備えていた。

 これに対し、将門側は兵を一時帰国させており、1000人足らずの軍勢、であったが、先制攻撃を加えるべく発進。 敵を発見した副将藤原玄茂軍は独断でこれを攻撃するが敗退。
追撃する貞盛・秀郷軍は下総川口にて将門軍と開戦し、撤退させる。

 本拠地での起死回生の戦いも、藤原為憲らの軍勢を加え、さらに強大になった貞盛軍の焼き討ちにより破れた将門は、僅か400人の手勢を率いて北山に陣を敷いて援軍を待つ。
しかし、これを先に敵に察知され、ついに最後の決戦に討って出る。

 さて、時は2月14日午後3時、圧倒的な連合軍に対して僅か400人の将門軍の戦いが開始された。
北からの強風を背にした将門軍はその矢に勢いがあり、対する連合軍の矢は力を失う。 これに勢いを得た将門軍は敵方の奇襲も撃破し、その多くを敗走させる。

 残る敵は僅かに300人。 悠々と自軍に引き返さんとする将門。
ここで風向きが劇的に変わる。 京の祈祷の力によると伝説は言う。

 反撃に転じた連合軍に対し、将門は先頭に立ち鬼神の如く戦う。
突風に驚き棹立ちになった馬の背に乗る将門の額に、一本の矢が突き立つ。

伝説では、魔人と化した将門の呪力を破るために、矢尻に自らの唾を塗った魔封じの法を使った俵藤太の放ったものであると言う。
また、一方では、京より呪法により飛来した矢であるとも言われる。

 天慶3年2月14日。 平将門は首を討たれ、彼の壮大な夢が消えた。
首は京に運ばれ、獄門として晒される。
同時期に瀬戸内海で起こった藤原純友の乱と合わせ、これを「承平天慶の乱」と呼ぶ。

2009年11月15日日曜日

平将門伝奇考・1

  序章

 江戸・東京の中心地、千代田区大手町一丁目一番一号に、平将門の首塚がある。
これは、江戸城の正面玄関、大手門の正面に位置する。
 現在もなおこれを移転しようとすると、不思議なことに事故が起こるという。
祟りがあるので、移転出来ない。 これはよく聞く話だ。
 しかし、家康が江戸城を中心とした、江戸の町を建設したころには、江戸の地はまだ、その多くが湿地帯であり、言わば開発前は未開の土地だった。
城を築く場所がなかった訳ではない。
江戸城は、首塚の正面にわざわざ築かれたのだ。
 当時のこの土地の人々に崇められていたとはいえ、朝廷の武人の頭領である征夷大将軍・家康が、朝敵とされた平将門の首塚を幕府の本拠地の正面に据えた都市建設とは、いったい何であったのだろう?
 江戸の呪術的結界の要に使われた。
そういう説だけでは説明しきれない部分があるように思う。

 平将門とは何であったのか?
将門の生涯、伝説、そして日本の三大怨霊と呼ばれるに至る経緯。
これらは、実に興味深い。

 今回は、これらを私なりに考えてみたいと思います。


 1、平将門の略歴

 生誕。 不詳。
各種の説があるが、880年頃であろうと思われる。

 通称は、相馬小次郎など。
平氏の姓を賜った高望王の三男・平良将の子。
平良将は、下総国佐倉を領地とする鎮守府将軍であり、将門は桓武天皇の5世であるとされる。

 15・6歳のころ、平安京にのぼり、藤原忠平と主従関係を結ぶ。
しかし、人がらを認められながらも、低い官位しか与えられなかった。
12年ほどの在京の後、故郷に帰る。
 その帰路に、叔父・平国香の襲撃にあい、これを撃退する。
これは、領地を巡る一族間の抗争の一環であり、この後この抗争が「平将門の乱」へと繋がって行く。

 この後、この抗争は激化・拡大されてゆき、天慶2年、常陸国府との戦いでこれを破り、印綬を没収。
これにより、朝廷への反乱と見なされる。

 この時、側近の興世王の「一国を討てりといえども公の責め軽からじ。 同じく坂東を虜掠して、暫く気色を聞かむ」という言を入れ、将門は関東一円を手中に収め「新皇」を名乗る。

 謀反人となった将門討伐に参議藤原忠文を征夷大将軍とする軍が派遣され、天慶3年2月14日、将門は討ち死にし、この乱は終わる。

 没年、天慶3年2月14日。(940年3月25日)

2009年10月24日土曜日

河童・4

                        (蚩尤)

 4)川・水の神系

 川は多くの場合、村と外界の境であり、此岸と彼岸を隔てるものである。 三途の川などというものもまた、ここからの連想であろう。 多くの場合、村の結界とも言える「賽の神」・道祖神などの外に川がある。
 この世の理の境界にある川に現れた怪異。 それが見知らぬ、あるいは奇異な生き物であれ、異邦人であれ、人はそれを分類・区分し情報処理しなくてはならない。
未知なる情報は、ここにおいて総称・類型としての「河童」というラベルを生み出す。

 怪異は「河童」であるという分類が確定された後に、その来歴をたどる事が可能となる。
「河童」という因果の「果」があればこそ、その「因」を求めうるのである。

 そしてまた、神も「因」であり、その「因」を産むのは「果」である。 神とは「現象」の子であり、その誕生をもって「現象」の親となる絶対矛盾を孕んだ存在という事も出来よう。
「河童」・妖怪は神の零落した姿であると柳田国男は述べている。

 さて、河童は、「かわわっぱ」であり、川にいる童子の如き姿の怪である。 この起源は、死産の子であり、間引かれた子であると述べた。 さらに、童形とは「かむろ」と呼ばれる結髪しない髪型であり「おかっぱ」と呼ばれる姿である。

 童子は幼名であり、本来の名前はまだ無い。 成人して初めて名前が与えられ、社会の一員であると認められる。 即ち、「童」である「河童」は社会の一員に加えられぬ存在である事を意味する。
籍の無い民である。

 河童は、かわうそであり亀であり、猿である。
さらに、童子であり川の民・山の民である。
そしてなお、魍魎・河伯・水虎など、様々な妖怪・神が融合した存在である。

 折口信夫は「ひょうすべ(河童)は穴師坐兵主神(あなしにいますひょうずのかみ)の末であろう」と述べている。
奈良県の穴師坐兵主神社には相撲神社もまた祀られている。

 「河童」は相撲が好きというのにはここにも理由がある。
相撲の祖と言えば野見宿禰であり、垂仁天皇に仕えたとされる。
天皇の墓に大勢の殉死者を伴う代わりに、埴輪を埋葬することを提案し、土師連(はじのむらじ)の姓を賜った。 その後、土師氏は代々埴輪製造に関わり、葬礼・造墓に関わった氏族である。

 河童を使役したと言われる菅原道真はこの子孫であり、三代前には土師氏を名乗っていた。 葬儀に関わる氏族でありながら賤職である故に、政治の世界に進出した際の改名であるという。 余談であるが、この出自が後に道真の悲劇に繋がって行く事になるのであろう。
ともあれ、ここで河童と菅原道真が繋がる事になる。

 さて、「ひょうすべ」の「兵主神」は中国神話の「蚩尤(しゆう)」であるという説がある。
蚩尤は神農神の子孫であり、伝説の黄帝と争った暴神である。 人の身体に牛の蹄、牛の角と四つの目を持ち手足が六本づつあるという。
 相撲が好きな軍神であり、産鉄・鍛冶神でもある。 蹈鞴の民を含む河童の祖にふさわしい神ではあろう。 ちなみに、かの魔猿・孫悟空を蚩尤になぞらえた説もあるので、こちらも河童=猿と結びついて面白い。

 この蚩尤=兵主を日本に伝えたのが新羅からの渡来民・秦氏であるとされる。 秦氏は技術集団でもあり、製鉄技術などを含む多くの技術をもたらした。 この「技術」には宗教なども含まれるが、ここではその事に触れずに先を急ごう。

 蚩尤は暴風雨の神であり、雷神・道真との結びつきはここにも現れる。 天神・道真の別称は「天満大自在天神」であり、インドのシヴァ神の別称である。 シヴァは暴風雨の化身であり、牛の守護神である。
これは、また、スサノオとも繋がって行く。 全てが混合され、混沌と化す。
そして、全ての情報は混同され、神はやがてその出自を忘れられた末に零落して妖怪となる。


 駆け足で、河童についての考えを述べさせていただきましたが、河童は複雑であり、けして語り尽くせぬ妖怪であるのです。 いつかまた、改めて補足したいと考えています。
 さらに、蛇足ですが、これは「川の怪」としての河童という「説明のメカニズム」とでも言うべきものに対する考察であり、「生物」「存在」としての河童について述べたものではありません。
つまり平たく言えば、「河童の目撃談」などを否定しないよ、という事です。

 UMAとしての河童。 これは、出来ればいてもらいたい。 いるならば、第一種接近遭遇などを経験してみたいという気持ちは持っていたい。 そのような思いを失いたくはないと考えております。

�再

2009年10月18日日曜日

河童・3

                      (山童・やまわろ)

                      (ひょうすべ)


 3) 山の民・川の民系

 動物系の補足にもなるが、平安時代の「怪異」に対する考え方を述べておこう。
「本朝世紀」という、当時の史書によれば、寛和二年(986年)2月16日、御所の太政官において一匹の蛇が発見される。 ただ一匹の蛇が迷い込んだというだけの話である。 しかし、彼らはこの一件を怪異と見て、その吉凶を陰陽師・安倍晴明に占わせている。 同月の27日には、鳩が迷い込み、これを怪異と見て、同じく占ったとある。
 このような記録は枚挙にいとまがない。 動物の常ならざる行動は、それだけで怪異であり、吉凶を占うべきものであると考えられていた事が見て取れる。
 本来、里と異界の境界線である川に、普段見慣れないものがいた。 これは、それだけで尋常ならざる出来事であると考えられたのである。 「本朝世紀」における貴族階級の考えが、即庶民階級の考えでもあったと述べるつもりはないが、この事は頭においておく必要がある。

 ならば、河原に境界の外の人間がいた場合はどうか?
これが、川の民が転じて河童になるメカニズムの根源だ。

 九州地方には、河童の一種である「ひょうすべ」がいる。
かつて太宰府天満宮境内に「兵主部」(ひょうすべ)を祀る祠がある。 菅原道真が河童を助けてやった事があって、その礼に「菅原」の姓の者には害をなさないと約定したという話にちなむものである。
 以来、河童の難に出会った折には「すがわら」と唱えればこれを逃れると言う。 類似の話は各地に残っている。
 佐賀県の武雄市・潮見神社は河童の主人であるという渋江氏を祀っている。 渋江氏は菅原一族の末裔で、祖先に兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸という人物がいる。 彼は工匠の奉行であり、当時の工匠が人手を欲しがったので、多数のわら人形をこしらえ、これに祈祷により命を与え春日社の工事に使役した。 完成後にわら人形を川に捨てたのが河童の始まりであるという伝承がある。
同様な伝承は、左甚五郎やその他の逸話として多く残されている。

 折口信夫説では、ひょうすべは「兵主神」であろう、平安時代の『延喜式』神名帳には、式内社としてこの神を祀る神社が十九社ほど載っている。 そのうち但馬には七社も集中しており、但馬は新羅から渡来した天日槍(あまのひほこ)の本拠地であり、兵主神もまた渡来人が信仰していた神であろう、とある。
ひょうすべは神の零落した姿ということになるのだが、これについては項を改めて考察したい。

 ここで、注目したいのは、渡来民などの治水技術者集団であり、彼らは当初こそ重要な地位にあるものとして扱われたが、時代を下るにつれて、単に使役される者という立場に追い込まれて行く。
ひょうすべ=河童の原型の一つには、門別帳にすら籍のない彼らが使役され、棄てられたという伝承が関わっていると思える。

 さらに、安倍晴明が一条戻り橋の下に置いた式神なども、河童の原型の一つであろう。 
境界の境に住む人々、瀬鰤する民・サンカなどがこれにあたる。
 沖浦和光氏は、日本の歴史に現れる漂泊民を以下の六項目に分類している。
① 乞食体の僧形で諸国を遍歴する「遊行者」。
②芸能の民であり、祭礼や門付け芸の「遊芸民」。
③「香具師」「世間師」。
④船で暮らす「家船」と呼ばれる漁民。
⑤木地屋・蹈鞴師・炭焼きなどの山の民。
⑥山野河川で瀬鰤り(野宿)しながら、川魚漁や竹細工などで生計を立てる「サンカ」。

 全てが無宿人であり、戸籍を持たない「名前のない民」である。
晴明などは、情報収集や情報戦略に①②③などを使ったのではないだろうか。
無名であり、籍がなく、「公に存在を認められぬ民」こそ、姿の見えぬ式神の正体であろうと考える。
そして、式神もまた、時代を下って河童と混同されて行ったのであろう。

 ⑤の蹈鞴師や⑥のサンカなどは、夏は川に降りて川童・河童となり、冬は山に戻り山童となるという、河童の生態と生活パターンを同じくする。
蹈鞴は冬場に産鉄業を営み、夏場にはその一部が田畑の仕事などに従事する。
サンカは、夏場に川魚漁をし、冬場に山で竹細工などを行う。

 時に於いて彼らは理不尽な扱いを受けたであろう。 あるいはささいな理由で殺傷される事もあったかも知れない。 歴史が勝者によってのみ作られるものである以上、勝者の罪は常に転化される。 差別され、虐げられたのは、彼らが人ではなく河童であったからと伝承される所以である。

 追記すれば、サンカがスッポンや亀を背負って歩く姿を描くならば、甲羅があると誤認する場合もあろう。 あるいは、彼らが売り歩く笊などを背負う姿もまた、画にすれば甲羅のように見えるかも知れない。

 河童は多くのものが混同されているので、ここに記した事はその一部に対する考察に過ぎないが、ここに於いても、河童の起源は悲しい・・・。

2009年10月10日土曜日

河童・2



 2)の動物形体については、一般的に「河童」と言われた場合に想像する、亀や蛙を連想させる形体の他に、猿に似た形態が知られる。
 これは全身が毛に覆われており、牙が生えていたり甲羅が無いものが多いようだ。
えんこ、かわうそ、ひょうすべ、川童、山童、キジムナーなど、全国的分布を見ても、甲羅を背負った亀形体より、実際にはこちらの方が圧倒的に多い。
 頭に皿、背中に甲羅という、形体が定着したのは、江戸中期以降で、これ以降に徐々に河童のイメージが統一されて行ったというのが実情であろう。
 これには、絵草紙や浮世絵などが、徐々に庶民の間に浸透して行った過程との関連性があると考えるのだが、今の段階では検証していないので想像の域を出ない。

 折口信夫によれば、「河童の頭の皿は食物を乗せるものであることから、力の象徴であろうと考えられる」、とある。
頭上に皿を捧げ持つと解すれば、河童は供物を捧げる者と解する事も可能であり、これについては後に改めて述べたいと思う。

 甲羅に関しても、古い文献によれば、これが蓑であったり、甲羅を背負っている場合も見受けられる。
甲羅を紐で吊るしているのだが、これは「カメ釣り」の行商の図であり、蓑や竹細工もカメ釣り同様に「サンカ」の職業と密接な関係がある。 これらについても、後に述べたいと思う。 この項では、動物系の紹介に止まろう。

 甲羅系は、比較的その歴史が浅く、キュウリが好きという以外にはあまりその生態が伝えられていない。 あえて言うなら、絵師が亀・スッポンなどからの連想により描いたのが始まりかも知れない。
雁木小僧などがこの形体に近いが、これも江戸時代の創作である。
あるいは、甲羅や蓑を背負う画が変形した結果とも考えられる。

 猿型は、和漢三才図会に「水獺(すいだつ)」の記述が見え、これには「獱獺(ひんだつ)つまり獺(かわうそ)の大きいものである。 頸は馬のようで身体は蝙蝠(こうもり)に似ている。 あるいは獺に雌がなく、猨を雄とする」などとある。 河童の起源のひとつはかわうそである。

 「猨」とは中国や東南アジアの手長猿のことであるが、日本には存在しないので、日本猿の姿をこれに見立てたものであろう。 「手長」が盗みを意味し、ここから「猿猴する」=盗むという言葉が生まれたという説もあり、河童の手が切られる話が多いことを考え併せると興味深い。
ともあれ、河童の起源のひとつは猿である。 

 河童は、他に蛙、鼈(すっぽん)、蛟、山猫などの妖怪が融合した存在であり、亀型・猿型というのも、実はその一部に過ぎない。 ただ、現在一般に想像される代表的な形体は、この二つに集約されるであろう。

 

 

2009年9月27日日曜日

河童・1



                  (葛飾北斎・河童)

 頭に皿、背中に甲羅、緑色で水かきがあり、相撲とキュウリが好き。
人を水中に引き込み、尻子玉を抜く。
おおよそ、そのようなイメージでしょうか。

 ただ、河童の由来は複雑で、実に多くのモノが混合されている。
本来、「河童」とひとくくりにして扱うのは無理があるように思える。
地方によっての呼び名も、土佐の「しばてん」、福岡・九州の「ひょうすべ・ひょうすき」、北海道では「ミンツチカムイ」と枚挙にいとまがないほどあり、その形状・性格もそれぞれに違う。

 その類型を大きく分けると、
1、川に棲む童子系
2、かわうそなどの動物系
3、山の民・川の民系
4、川・水の神系
とでも分類出来るでしょうか。

 今回は「1、童子系」について考えてみました。

 鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」によれば『山川のもくずのうちに、赤子のかたちしたるものあり。 これを川赤子といふなるよし。 川太郎、川童の類ならんか』とある。
ここにおける河童は、童子・赤ん坊の姿をしている。

 さらに、柳田国男の「遠野物語」では『外の地にては河童の顔は青しといふようなれど、遠野の河童は面の色赭(赤)きなり。』とあり、『松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。 生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。』と、人間と河童の通婚譚が記載されている。
これなどは、何とも凄まじい描写であり、ここには戯画的でユーモラスな河童の姿はない。

 これらは、過去に於いて、流産した未熟児や、あるいは飢饉などによる「間引き」により川に流された赤ん坊を「河童の児」であるからと理由付けたものであるのかも知れない。
あるいは、子供を川に流した罪の意識が、夜に川から聞こえる怪音や、カワウソ・亀などの姿を誤認させて河童を生み出したのであろうか。

 記紀神話によると、イザナギ・イザナミの神が交わって、最初に生まれた子供は、骨の無い水蛭にも似た醜い水蛭子(ひるこ)であったので、この御子は、葦の葉を編んで作った葦舟に入れて、流し棄ててしまったとある。

 これが、河童の最初の姿であろうか。
すると、河童とは人間の原罪そのものの姿であると言えよう。

 ここにおける河童とは、人間の原罪を顕現した存在であり、そしてその存在はとてつもなく悲しいものではないだろうか・・・・・・。

 

 








はじめに

 例えば、日本人はどこから来たのだろう?
「邪馬台国」は存在したのか?
記紀神話などに表される「神々」とは何だろう?
平安の闇に跳梁跋扈する、百鬼夜行の正体は?

 謎の古代遺跡から都市伝説まで、この世界は不思議に満ちている。
答えの出ないものについて考える事は、本当に楽しい。
そんなあれこれを考えるブログを書いてみたい。

 そして、それに対する皆さんの考えをコメントして頂けたら幸いです。
出来れば、そのような意見交換・交流の場になれば良いと、願っています。

 さて、当面扱って行く予定は、
1、邪馬台国
2、鬼と河童・まつろわぬ民の末裔
3、安倍晴明伝説
4、記紀神話の神々
などがありますが、徒然なるままに世界の神話についてや、世界の古代遺跡などについても話題にして行きたいと思っています。 上に書いたタイトルも順番通りという訳ではなく、思うままに綴ってゆきたいと思っています。

 歴史の闇について考えるのは楽しい。
答えの出ないことについて考察することの楽しさ、それを追求してゆきたいと思っています。