2009年11月15日日曜日

平将門伝奇考・1

  序章

 江戸・東京の中心地、千代田区大手町一丁目一番一号に、平将門の首塚がある。
これは、江戸城の正面玄関、大手門の正面に位置する。
 現在もなおこれを移転しようとすると、不思議なことに事故が起こるという。
祟りがあるので、移転出来ない。 これはよく聞く話だ。
 しかし、家康が江戸城を中心とした、江戸の町を建設したころには、江戸の地はまだ、その多くが湿地帯であり、言わば開発前は未開の土地だった。
城を築く場所がなかった訳ではない。
江戸城は、首塚の正面にわざわざ築かれたのだ。
 当時のこの土地の人々に崇められていたとはいえ、朝廷の武人の頭領である征夷大将軍・家康が、朝敵とされた平将門の首塚を幕府の本拠地の正面に据えた都市建設とは、いったい何であったのだろう?
 江戸の呪術的結界の要に使われた。
そういう説だけでは説明しきれない部分があるように思う。

 平将門とは何であったのか?
将門の生涯、伝説、そして日本の三大怨霊と呼ばれるに至る経緯。
これらは、実に興味深い。

 今回は、これらを私なりに考えてみたいと思います。


 1、平将門の略歴

 生誕。 不詳。
各種の説があるが、880年頃であろうと思われる。

 通称は、相馬小次郎など。
平氏の姓を賜った高望王の三男・平良将の子。
平良将は、下総国佐倉を領地とする鎮守府将軍であり、将門は桓武天皇の5世であるとされる。

 15・6歳のころ、平安京にのぼり、藤原忠平と主従関係を結ぶ。
しかし、人がらを認められながらも、低い官位しか与えられなかった。
12年ほどの在京の後、故郷に帰る。
 その帰路に、叔父・平国香の襲撃にあい、これを撃退する。
これは、領地を巡る一族間の抗争の一環であり、この後この抗争が「平将門の乱」へと繋がって行く。

 この後、この抗争は激化・拡大されてゆき、天慶2年、常陸国府との戦いでこれを破り、印綬を没収。
これにより、朝廷への反乱と見なされる。

 この時、側近の興世王の「一国を討てりといえども公の責め軽からじ。 同じく坂東を虜掠して、暫く気色を聞かむ」という言を入れ、将門は関東一円を手中に収め「新皇」を名乗る。

 謀反人となった将門討伐に参議藤原忠文を征夷大将軍とする軍が派遣され、天慶3年2月14日、将門は討ち死にし、この乱は終わる。

 没年、天慶3年2月14日。(940年3月25日)

4 件のコメント:

mokko さんのコメント...

将門キター!
QEDで触発されましたねぇ~
楽しみにしてたんですよぉ~
首塚の周りのビルでは、首塚に背を向けて仕事が出来ないらしいです。

そんな将門の不思議を切ってくれるのですねぇ

歴史音痴なので、解説から入ってもらえるのは
もの凄くありがたいです(^◇^;)
次を超期待(((o(^。^")o)))ワクワク

miroku さんのコメント...

 mokkoさんへ

 将門伝説、怨霊としての祟り、家康の思惑と江戸の風水。 さらに、鬼について少し書ければと思います。 が、いかんせん力量不足を感じますねえ・・・。
 大変な事を始めてしまったと・・・。
で、河童もね、補足もだけど、実はもう一つやりかけの事があって・・・、「ゆらり」というタイトルで、プロットもラストも決まっていて、下書き中の小説が放置してあるのですよね・・・。 死ぬまでには書きあげたいと思っています。

mokko さんのコメント...

なんですとぉ~(゚O゚;
小説ですってぇ~!!

プロットってイマイチよくわかってないけど
設計図のようなものかしら?
で、ラストも決まっている。
ってことは、肉付けするだけ?
単純すぎ?
でも!でも!!
聞いたからには絶対に読ませていただきたい!
mokkoは間違いなく長生きしますから
死ぬまでには発表してくださいね♪
絶対だからねぇ~( ̄▼ ̄)ニヤッ

ちなみに、mokkoは気は長い方だけど
しつこいですからぁ~(o^-^o) ウフッ

miroku さんのコメント...

 mokkoさんへ

 うう、いらぬことを書いてしまった・・・。
まあ、一応頭の中では出来あがっているのですが・・・。 あとは、書きながら細部を仕上げれば良い、ただ一つ二つ迷っている部分がね。
 完成したら、何らかの形でmokkoさんには見て頂こうと思っています。