2010年2月23日火曜日

平将門伝奇考ギャラリー

                   将門首塚

                    首塚発掘

                     平将門


                         将門と七人の影武者

                 相馬内裏

                    俵籐太百足退治

                       俵籐太百足退治
 

 書き足りない思いを残しつつ、平将門伝奇考これにて終幕。


 

 

2010年2月21日日曜日

平将門伝奇考・18 結

 平将門の乱は終わった。
将門は討たれ、その首は京の都に晒された。
しかし、その伝説は終わらなかった。

 将門と同時期に瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友に対して、朝廷は階位を贈る事で懐柔しようとしている。
全力を持って将門に当たりたいという気持ちがここに見てとれる。
将門はそれほどまでに恐れられたのである。

 この恐怖と、民衆の英雄に対する思いが数々の伝説を生んだ。
将門の首は、死してなお言葉を発し、自分の身体を求めて坂東に飛び去る。
そして、関東の地で怨霊と化して朝廷に呪いをかける。
少なくとも、都においては将門は怨霊であった。

 一方、将門の地元坂東の地では、将門は地霊として敬われている。
坂東の民の守り神として・・・・・・。
その例の一つが、神田神社への民衆の信仰であろう。
死してなお将門が慕われた証は、様々な伝承や寺社への信仰に現れている。

 時は流れ、徳川が江戸の地を本拠地と定め、湿地を開拓する。
この折に、家康・天海により、将門は江戸の守護神・地霊として重要な役割を振りあてられた。
首塚は大手門の正面に残され、神田神社は厚く庇護される。
江戸期において、神田神社の大祭の神輿だけは、江戸城内に入る事を認められている。
これは破格の扱いである。

 家康は、源頼朝と並び将門を武家の祖と考えたのだ。
自らの祖先を厚く祀るならば、祖霊は守護神となる。

 一方でまた、関東での将門人気というものがある。
民衆の敬う将門を自らの祖として祀る事は、徳川政権の人気へと繋がる。
さらに、武士の祖であるならば、全ての武士はこれに刃を向ける事が出来ないという事でもある。

 これが、将門が江戸の守護神とされた理由であろう。
しかし、私はさらにもう一つ別の意図が見えるような気がする。
江戸城の正面に「新皇」将門を据える。
本来、朝廷に対してこれは不敬にあたる。
家康は、それでもあえてこの不敬を犯したのだ。
それは、朝廷に対して、日本の主権は我にありという高らかな宣言ではなかっただろうか?

 そして、ここから真の武士の時代が始まったのだ。

            了。

平将門伝奇考・18 坂東の虹Ⅲ

 日本の歴史上、皇族同志の争いを除いて、天皇になろうとして反乱を起こした者は、平将門の他にない。
この出来事は朝廷にとって未曾有の脅威であった。
まして、将門軍はそれまでの常識にない刀や防具で武装した強大な騎馬軍団であった。

 都には明日にも将門が京に攻めのぼるという噂が飛び交い、朝廷は大混乱に陥る。
この年の元旦も正月行事はほとんど中止され、朝廷は全国の寺社に将門調伏の祈祷を命じている。
その数、なんと340にのぼったという。
朝廷が、都の鬼門に湧き起ったこの暗雲をいかに恐れたかが窺える。

 さらに、朝廷は公家の藤原忠文を征東将軍に任じる。
この時代、常備軍などはない。 忠平は軍を募った。
鬼を討てる者は鬼。 平貞盛、藤原秀郷軍が将門討伐にあたることとなる。

 藤原秀郷=俵籐太。 瀬田大橋にて龍神=蛇の依頼で大百足を退治した勇者である。
以前に述べたように百足は産鉄民を意味する。
そして、龍=蛇もまたヤマタノオロチの例にも見えるように産鉄民の象徴である。
百足VS龍の図式は産鉄民同志の争いでもある。

 新兵器には新兵器を、通常の矢を通さない将門の「鉄の身体」を討てるものは百足殺しの呪の籠った矢のみ。
同じ装備の籐太の矢は、将門の鎧を貫くことが出来る。
かくして、龍による百足殺しが再現されることになる。

 天慶三年(940年)二月十三日、貞盛・秀郷軍二千八百は将門の館を急襲する。
しかし、その場にいたのは将門軍の総勢八千ではなく四百だけに過ぎなかった。
これには理由がある。

 この当時、否、それ以後も日本における軍人とは農兵であった。
常日頃は農業に従事し、戦時のみ武士として戦闘に加わるのである。
だから、農繁期には戦闘は行われない。
これが常識であり、この時期田起こしのために将門軍のほとんどが地元に帰っていた。

 奇妙に聞こえるかも知れないが、後世における信玄VS謙信の七度に渡る川中島の合戦が、何故決着がつかなかったのかという理由も実は同様なのだ。
信玄と謙信は睨み合う間に農繁期を迎え兵を引いた。 これが「名勝負」の実際のわけ・・・・・・、少なくとも理由の一つなのだ。
史上、専業武士を始めて組織したのは実は織田信長であり、それ以前は農兵が主であったのだ。

 将門はこの後に及んでも甘かったと言わざるを得ない。
新皇を名乗り、朝廷に反旗を翻した以上、本来この闘争は朝廷を倒すまで終わらない。
通常の領地争いの域を越えた反乱。 その認識がなかったのかも知れない。

 一方、貞盛・秀郷軍は農民を地元に帰さなかった。
両軍の戦略の差がここに出た。
当然、将門側の情報も収集していたであろう。
将門軍が寡兵になるのを知っていたと私は考える。

 かくして、将門の元から「妙見神」である軍勢は去って行った。
諜報・諜略戦において、都流の軍略が勝ったとも言えよう。

 余談だが、将門の妻・桔梗が籐太に内通したという伝説もある。
桔梗と言う名にも意味がある。 桔梗紋とは五亡星と同意であり、これも工業者の紋章である。
すなわち、ここにもタタラの影が見え隠れするのだ。

 ・・・・・・かくして百足は龍に滅ぼされた。

 都の圧政に耐える坂東の民は、自分たちの大地から立ち昇る虹を見た。
虹は彼らの希望を乗せて、天に届くかと思われた。
坂東の天と地を結ぶ壮大な虹はひと時まばゆく煌めいて、そして、消えた。

 

2010年2月20日土曜日

平将門伝奇考・17 坂東の虹Ⅱ

 余談だが武芝を襲った源経基なる人物について。
経基は武勇に優れた人物ではなく、その性格は貴族的であったと言われる。
彼の父は清和帝の第六子であったことから、経基は六孫王などと呼称された。
そして彼は清和源氏の祖とされている。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は彼の子孫である。

 後に述べるが、家康は頼朝と将門を江戸の霊的守護の要に据えるのだが、その二人の人物がここで奇妙な縁により交差しているのは面白い。
歴史は時に意味深ないたずらをする。

 運命はこの後急変する。
常陸の住人・藤原玄明(はるあき)が罪を犯して国府に追われ、将門に庇護を求めて来たのだ。
将門はこれをかくまい、引き渡し要求に応じなかった。

 将門も玄明が犯罪者であることは解っていた。
しかし、彼はそれでも自分を頼って来た者を庇ったのだ。
追っ手が宿敵・平貞盛の身内である藤原惟幾であった事も原因の一つであったのかも知れない。

 そしてこれは反逆以外のなにものでもなかった。
単純な「義」により、将門は謀反人となった。
この「義」が後世の将門人気につながるのだが・・・・・・。

 さらにこの後、将門は常陸国府を襲撃する。
都の貴族による理不尽なふるまいや搾取に対する憤りもあったであろう。
こうして平将門の乱は始まった。

 しかし、彼は本当に朝廷に対して反乱を起こしたという意識があったのだろうか?
将門は彼に味方する地元民と共に国府軍を圧倒し、常陸介の藤原惟幾を生け捕りにしながら、国府を占領するでもなく引き上げてしまう。
さらに惟幾を都に送り返している。

 この痛快な行動は坂東の民に広く支持された。
さらにここで興世王が将門の側近につき、反乱を煽る。
「一国を討つのも坂東全体を占領するのも同じ」であると・・・・・・。

 そして翌940年2月、将門は数千の兵をもって挙兵する。
まずは上野国国府を陥落し、公印を奪い続いて下野国府を陥落する。

 ここに一人の巫女が現れ自分は八幡菩薩(応神天皇)の使いだと称して神託を告げる。
「朕が位を蔭子・平将門に捧げ奉る。 ・・・・・・」。
将門を天皇に任命するという神託である。

 この後、将門は坂東八か国の国府を陥落し、国司を任命する。
下野守=平将頼(弟)、上野守=多治経明、常陸介=藤原玄茂、上総介=興世王、安房介=文屋好立、相模守=平将文(弟)、伊豆守=平将武(弟)、下総守=平将為である。
これは、何故全てを最高責任者である守にしなかったのかが謎である。
良い参謀がいなかった事が見て取れる人事ではある。

 その後かつての私君である藤原忠平に将門が送った書状にはこうしたためてある。
「将門はすでに柏原帝王(桓武天皇)の五代の孫なり。 たとひながく半国を領せるも、あとに悲運といはんや、昔、兵威を振るひて天下を取る者、みな史書に見る所なり。 将門、天の与へる所、すでに武芸にあり、思ひはかるに、等輩だれか将門に比せん」

 天皇の血筋である自分が天下の半分を領有して悪かろうはずはない・・・・・・。
朝廷を覆し、自らが天皇になるつもりはなかったのである。
なんと中途半端な反乱であったことか。
単なる領地争いの延長と考えていたのであろう。

 さらに、「武芸」に優れた者が天下を取るという思想もここに見える。
このあたりが、武家の祖であると考えられた所以であろうか。

 武士による関東の統治。
朝廷の支配による理不尽なまでの搾取を排し、坂東を独立させる。
これが将門の見た夢であった。

 貴族による搾取と差別に苦しんだ坂東の民は、将門の乱に魅せられただろう。
しかし、この乱は長くは続かなかった。




2010年2月6日土曜日

平将門伝奇考・16 坂東の虹-Ⅰ

 最初に、史実を簡単に紹介した。
最後に、私の考えを加えた平将門の生涯を再び追ってみよう。

 天武天皇の曾孫・高望王は、藤原北家が台頭し、出世の望みがなくなった都を捨て、上総介として東国に下る。
この時、「朝敵を平らげる」意味で賜ったのが平の姓である。

 高望王の、都では役にたたない血筋も、まだ未開の関東においては、地方豪族の娘婿として敬われた。
反乱の絶えなかった東国の秩序維持にも、それは役立ったであろう。
蛮族と呼ばれた蝦夷にも、一目おかれたであろうことは想像に難くない。
こうして、平一族は関東においての地盤を固めて行くことになる。

 さらに、高望王の子であり、将門の父である良持は鎮守府将軍の職についている。
狩猟民である俘囚などの反乱を鎮圧する戦いで、皇族であった平一族は、軍事貴族へと変貌を遂げて行く。
これが、武士の祖である。

 平小次郎将門は、平一族が東国での地位を確立した10世紀初頭に生まれる。
しかし、正確にはいつどこで生まれたかは不明である。
将門は、良持の死後、母方の下総北部の猿島郡・豊田郡という広大な領土を受け継いだ。
あるいは、傍流の血筋であったのかも知れないと私は想像している。
領地を巡る叔父たちとの対立もそのあたりに端を発するのではないだろうか。

 蝦夷や俘囚は反乱するばかりではない。
都では人と認められない彼らは、壮大なフロンティア坂東における、将門の配下でもあった。
将門は彼らを使い、湿地が主であった領地に広大な放牧場を作り、馬の生産による財力を蓄えた。
同時に、牧の片隅に製鉄場を作り、武器や農具・馬具を生産する。
将門の騎馬軍団はこうして力を蓄えて行く。

 やがて、彼は官位を求め都に上る。
検非違使の尉という管理職を求めた将門は、願い空しく禁中護衛の職しか得ることが出来なかった。
彼の主人にあたる藤原忠平も、彼の人柄を認めながらも間接的にその要領の悪さを示唆している。
上手く賄賂が贈れない。 貴族としての雅な付き合いが出来ない。
おそらく、そのようないささか武骨な人物であったのではないだろうか。

 下向した将門を待っていたのは、叔父たちとの領地を巡る争いであった。
この時代の関東は、領地や利権を巡る争いが頻発する、一種の無法地帯の様相を呈している。
その中で、将門はかなり有力な地方豪族であったようだ。

 将門が三十六歳の時に、武蔵国に新しい国司が赴任する。
権守(ごんのかみ)興世王と介(すけ)の源経基である。
(実質的な地方長官と副長官と考えてもらえば良い)

 彼らは、視察の名目で貢物を集めようとするのだが、これに対して地元の武蔵武芝は「慣例にない」事を理由に待ったをかける。
それでも「視察」を強行した興世王・経基との衝突を恐れた武芝は山野に身を隠す。
 興世王たちは、武芝の屋敷を襲って金品を強奪するという行為に出る。
武芝は返還要求するが、逆に興世王たちは兵を向ける。

 ここに将門が登場し、この仲裁に入ったのだ。
無位無官の将門が、朝廷の定めた地方責任者の争いを仲裁する。
これは、この地方における将門がいかに有力であったかを物語っている。
さらに、将門が公正で単純な正義感の持ち主であった事を窺わせる。

 将門の仲裁により、興世王と武芝は和解した。
ところが、経基は武芝の屋敷を包囲するという暴挙に出た。
その後、将門・興世王・武芝連合を恐れて都に駆け戻り、何とこの三者が朝廷に対して謀反を起こしたと訴え出る。

 何ともあきれ果てた話である。
しかし、この容疑は、将門が常陸・下総・下野・武蔵・上野の五か国の国府から「謀反人にあらず」という証明書を出してもらい都に送りつけたことで晴らされることになる。
このことからも、将門の実力と人がらが広く認められていた事がわかる。

 親分肌の人間で、人々から慕われていたのであろう。
しかし、その事がこの後の悲劇へと結びついて行く。


 

平将門伝奇考・15 幻想から歴史へ

 百足、妙見菩薩、八幡神など、将門の伝説は「タタラ」を暗示するものが多い。
では、実際の接点は?

 それは1981年に発見された。
将門の放牧場の南端から、当時の製鉄炉二基が出土したのだ。
ここから、鉄のこびりついた炉壁、数トンに及ぶ鉄かす、鍛冶場で使うふいごの破片までもが見つかった。
将門は放牧場に隣接した製鉄炉を所有していたのだ。

 関東・東北では、七~八世紀にかけての製鉄炉は、非常に規模が大きく、西日本からの技術を導入していたと見られるのだが、九世紀の半ばには小型の製鉄炉が各地で作られるようになる。
将門のような領主たちが、自分で鉄を作るようになっていたのだ。

 彼らは、自分で農具や馬具、武器を製造していたものと考えられている。
当然、それに従事する民を従えて。
これが、タタラと呼ばれる民である。

 そして、彼らは新兵器を生み出す。

 製鉄炉跡の近くに大宝八幡宮があり、かつて将門愛用の刀が奉納されてあったという。
今はその言い伝えが残るばかりで、刀はない。
しかし、1940年頃に、この神社のすぐそばから古代の刀がまとまって出土した。
これは、十世紀つまり将門の時代の刀であるという。
そのうちの一振りが、今も残っている。

 その刀にはそりがある。

 何を当たり前のことを言っているのだと思われるかも知れないが、平安時代の初期までは直刀が使用されており、この時代は直刀から日本刀へと移り変わる過渡期であった。
刀身にそりのある日本刀はまだ無い。

 この時代、関西には柄が婉曲し刀身は真直ぐな「蕨手刀」しかなかった。
これは、突くことを主体とした刀であり、馬上で使うには不向きな武器であった。
日本刀の形が完成するには、十二世紀まで待たなければならない。

 しかし、出土した刀には刀身にまで反りがある。
これは、日本刀に限りなく近い、斬撃を想定した武器である。
即ち、騎馬で戦う上で有効であるのは勿論、地上での接近戦に於いても極めて精強な武器であった。

 これは想像であるが、兜や鎧にも鉄は使われたたであろう。
刀や矢を通さない身体。 これが、将門の黒鉄の身体の正体であろうと推測出来る。
「妙見菩薩」の加護は確かにあったのかも知れない。

 新兵器。 これが将門軍団の強さの秘密のひとつである。

 さらに、馬である。
将門の所領は、広大な湿地帯だった。
ここは、農業生産には不向きな土地であったが、将門はこれを改良し放牧場を作った。

 将門の放牧地のものと見られる土塁が今も残されている。
土塁の長さ南北に2,4キロ。 築造に動員された人員、推定二万人。
放牧地の広さおよそ350ヘクタール。
巨大な土塁と天然の沼、さらにそれを延長した堀で囲まれた壮大な放牧場であった。

 ここで、将門は当時貴重であった馬を大量に生産していた。
この豊かな資産が、同族間の争いを引き起こす事にもなるのだが、今は騎馬軍団についてだ。

 普段から馬の扱いに長けた将門軍団は、戦闘時に於いてもそれこそ鬼神の如き働きを見せた事であろう。

 新兵器を携えた、鬼神の如き働きの騎馬軍団。
これが将門軍の強さの秘密である。

 旧式の直刀と、遊びの延長で乗る馬術。
都の貴族の軍に、もはや対抗する術はなかった。
鬼門の方角に湧きおこる巨大な雷雲・平将門。
それは、公家の時代の終末と来るべき武士の時代を暗示しているようだった。

2010年1月31日日曜日

平将門伝奇考・14 伝説と史実の狭間‐Ⅱ

 さて、ここで「タタラ」である。
これは流浪の産鉄民族という側面を持ち、日本の古代史にその影を大きく落とす存在だ。

 一部には、遥かヒッタイトで生まれた金属材料を掘り出し、加工する産鉄民族が、中国大陸を渡り、朝鮮半島を経由し、日本にその技術を伝えたという説もある。
この民族は、白鳥の神話を持っており、これが日本に伝わりヤマトタケルの白鳥神話を産んだと、大胆な仮説を述べる方もおられるようだ。

 ここまで行くと、もはや話が壮大に過ぎて、私の手には負えない。
だが、この「タタラ」を抜きにして、将門を語れないのも事実である。

 タタラは、片脚で鞴を踏み、片目で炉を覗き込む。
故に、片目・片脚を悪くする者が多かったという。
だから、タタラの神は片目・片脚である。

 記紀神話における、天目一神・アマメマノヒトツノカミは正に鍛冶神の性格を持っている。
やがて、神は時代を下って零落し妖怪となる。 これが、「一本だたら」などである。

 夏に河で砂鉄を取り、冬に山で蹈鞴作業をする民。
川童(かわわろ)・山童(やまわろ)、これは河童である。
さらに、これらは頭がカムロであり、「童形」である。
これは、髷を結わない、即ち常民では無い事を表わし。
四民制度の埒外の存在であることを示す。
タタラは籍を持たない流浪の民であった。

 彼らは、鉄鉱石や砂鉄を求めて、山を流浪し、製鉄に必要な木材が尽きるとまた別の場所に移るという、一所不在の集団であっただろう。

 タタラは金属を加工し、武具を作る。
故に、産鉄神であり、武士の守護神である。
八幡神や北辰信仰はこれに連なる。

 将門を支えた、タタラ集団が存在すると、ここで断言しよう。
これは、妙見信仰を持った集団であり、将門の元で武器を作り、馬具を作り、ある時は戦闘に加わったであろう。
これが、妙見菩薩の加護の正体だ。

 だが、妙見菩薩は最後に将門を見限り、敵方につく。
神にあらざる人間集団ならば、この行いも簡単に理解出来る。
おそらくは、敵方の切り崩し工作・諜略があったのであろうと推測出来る。
これが妙見菩薩が敵方を守護した理由である。

 記紀神話では、ヤマトタケルが女装してクマソタケルを討った話が記載されている。
古来、日本ではこのような謀略・知略をも戦略にたけた行為として称える風習がある。
敵の切り崩し工作は当然の行為であっただろう。

 そして、将門は討たれた。
朝廷側直属の軍などは存在しない。
討ったのは同族と、もう一人の将門になったかも知れない俵籐太の軍勢である。

 殿上人は自らの手を汚さない。
検非違使の制度を見よ。
犯罪者を取り締まるのは、卑賤の者によって・・・。
同類に同類を当てるという思想である。
人にあらざる鬼に鬼を当てるのだ。

 かくして、鉄の身体を持った戦鬼・将門=百足の王は百足殺しの「英雄」=鬼・俵籐太に滅ぼされる。
一説には片目を射抜かれたとある。 これも、タタラの暗示。 ご丁寧な話だ。

 あるいは、コメカミを射抜かれたのであれば、矢は横=味方のいる場所から飛んできた事にになる。
この場合、弓を射たのは、やはり籐太か、はたまた、味方であったタタラの集団か・・・。

 貴族にあらずば人にあらず。
人にあらざる関東人は、将門が新皇を名乗ったことに大いに喝采した事であろう。
しかし、将門と人々の夢はここに尽きた。

 これが、私の将門幻想だ。
そして、これだけでは妄想に過ぎない。

 次回、これを論証する。
神話と史実を重ねる。