2010年2月21日日曜日

平将門伝奇考・18 坂東の虹Ⅲ

 日本の歴史上、皇族同志の争いを除いて、天皇になろうとして反乱を起こした者は、平将門の他にない。
この出来事は朝廷にとって未曾有の脅威であった。
まして、将門軍はそれまでの常識にない刀や防具で武装した強大な騎馬軍団であった。

 都には明日にも将門が京に攻めのぼるという噂が飛び交い、朝廷は大混乱に陥る。
この年の元旦も正月行事はほとんど中止され、朝廷は全国の寺社に将門調伏の祈祷を命じている。
その数、なんと340にのぼったという。
朝廷が、都の鬼門に湧き起ったこの暗雲をいかに恐れたかが窺える。

 さらに、朝廷は公家の藤原忠文を征東将軍に任じる。
この時代、常備軍などはない。 忠平は軍を募った。
鬼を討てる者は鬼。 平貞盛、藤原秀郷軍が将門討伐にあたることとなる。

 藤原秀郷=俵籐太。 瀬田大橋にて龍神=蛇の依頼で大百足を退治した勇者である。
以前に述べたように百足は産鉄民を意味する。
そして、龍=蛇もまたヤマタノオロチの例にも見えるように産鉄民の象徴である。
百足VS龍の図式は産鉄民同志の争いでもある。

 新兵器には新兵器を、通常の矢を通さない将門の「鉄の身体」を討てるものは百足殺しの呪の籠った矢のみ。
同じ装備の籐太の矢は、将門の鎧を貫くことが出来る。
かくして、龍による百足殺しが再現されることになる。

 天慶三年(940年)二月十三日、貞盛・秀郷軍二千八百は将門の館を急襲する。
しかし、その場にいたのは将門軍の総勢八千ではなく四百だけに過ぎなかった。
これには理由がある。

 この当時、否、それ以後も日本における軍人とは農兵であった。
常日頃は農業に従事し、戦時のみ武士として戦闘に加わるのである。
だから、農繁期には戦闘は行われない。
これが常識であり、この時期田起こしのために将門軍のほとんどが地元に帰っていた。

 奇妙に聞こえるかも知れないが、後世における信玄VS謙信の七度に渡る川中島の合戦が、何故決着がつかなかったのかという理由も実は同様なのだ。
信玄と謙信は睨み合う間に農繁期を迎え兵を引いた。 これが「名勝負」の実際のわけ・・・・・・、少なくとも理由の一つなのだ。
史上、専業武士を始めて組織したのは実は織田信長であり、それ以前は農兵が主であったのだ。

 将門はこの後に及んでも甘かったと言わざるを得ない。
新皇を名乗り、朝廷に反旗を翻した以上、本来この闘争は朝廷を倒すまで終わらない。
通常の領地争いの域を越えた反乱。 その認識がなかったのかも知れない。

 一方、貞盛・秀郷軍は農民を地元に帰さなかった。
両軍の戦略の差がここに出た。
当然、将門側の情報も収集していたであろう。
将門軍が寡兵になるのを知っていたと私は考える。

 かくして、将門の元から「妙見神」である軍勢は去って行った。
諜報・諜略戦において、都流の軍略が勝ったとも言えよう。

 余談だが、将門の妻・桔梗が籐太に内通したという伝説もある。
桔梗と言う名にも意味がある。 桔梗紋とは五亡星と同意であり、これも工業者の紋章である。
すなわち、ここにもタタラの影が見え隠れするのだ。

 ・・・・・・かくして百足は龍に滅ぼされた。

 都の圧政に耐える坂東の民は、自分たちの大地から立ち昇る虹を見た。
虹は彼らの希望を乗せて、天に届くかと思われた。
坂東の天と地を結ぶ壮大な虹はひと時まばゆく煌めいて、そして、消えた。

 

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