2010年2月20日土曜日

平将門伝奇考・17 坂東の虹Ⅱ

 余談だが武芝を襲った源経基なる人物について。
経基は武勇に優れた人物ではなく、その性格は貴族的であったと言われる。
彼の父は清和帝の第六子であったことから、経基は六孫王などと呼称された。
そして彼は清和源氏の祖とされている。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は彼の子孫である。

 後に述べるが、家康は頼朝と将門を江戸の霊的守護の要に据えるのだが、その二人の人物がここで奇妙な縁により交差しているのは面白い。
歴史は時に意味深ないたずらをする。

 運命はこの後急変する。
常陸の住人・藤原玄明(はるあき)が罪を犯して国府に追われ、将門に庇護を求めて来たのだ。
将門はこれをかくまい、引き渡し要求に応じなかった。

 将門も玄明が犯罪者であることは解っていた。
しかし、彼はそれでも自分を頼って来た者を庇ったのだ。
追っ手が宿敵・平貞盛の身内である藤原惟幾であった事も原因の一つであったのかも知れない。

 そしてこれは反逆以外のなにものでもなかった。
単純な「義」により、将門は謀反人となった。
この「義」が後世の将門人気につながるのだが・・・・・・。

 さらにこの後、将門は常陸国府を襲撃する。
都の貴族による理不尽なふるまいや搾取に対する憤りもあったであろう。
こうして平将門の乱は始まった。

 しかし、彼は本当に朝廷に対して反乱を起こしたという意識があったのだろうか?
将門は彼に味方する地元民と共に国府軍を圧倒し、常陸介の藤原惟幾を生け捕りにしながら、国府を占領するでもなく引き上げてしまう。
さらに惟幾を都に送り返している。

 この痛快な行動は坂東の民に広く支持された。
さらにここで興世王が将門の側近につき、反乱を煽る。
「一国を討つのも坂東全体を占領するのも同じ」であると・・・・・・。

 そして翌940年2月、将門は数千の兵をもって挙兵する。
まずは上野国国府を陥落し、公印を奪い続いて下野国府を陥落する。

 ここに一人の巫女が現れ自分は八幡菩薩(応神天皇)の使いだと称して神託を告げる。
「朕が位を蔭子・平将門に捧げ奉る。 ・・・・・・」。
将門を天皇に任命するという神託である。

 この後、将門は坂東八か国の国府を陥落し、国司を任命する。
下野守=平将頼(弟)、上野守=多治経明、常陸介=藤原玄茂、上総介=興世王、安房介=文屋好立、相模守=平将文(弟)、伊豆守=平将武(弟)、下総守=平将為である。
これは、何故全てを最高責任者である守にしなかったのかが謎である。
良い参謀がいなかった事が見て取れる人事ではある。

 その後かつての私君である藤原忠平に将門が送った書状にはこうしたためてある。
「将門はすでに柏原帝王(桓武天皇)の五代の孫なり。 たとひながく半国を領せるも、あとに悲運といはんや、昔、兵威を振るひて天下を取る者、みな史書に見る所なり。 将門、天の与へる所、すでに武芸にあり、思ひはかるに、等輩だれか将門に比せん」

 天皇の血筋である自分が天下の半分を領有して悪かろうはずはない・・・・・・。
朝廷を覆し、自らが天皇になるつもりはなかったのである。
なんと中途半端な反乱であったことか。
単なる領地争いの延長と考えていたのであろう。

 さらに、「武芸」に優れた者が天下を取るという思想もここに見える。
このあたりが、武家の祖であると考えられた所以であろうか。

 武士による関東の統治。
朝廷の支配による理不尽なまでの搾取を排し、坂東を独立させる。
これが将門の見た夢であった。

 貴族による搾取と差別に苦しんだ坂東の民は、将門の乱に魅せられただろう。
しかし、この乱は長くは続かなかった。




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