2010年2月6日土曜日

平将門伝奇考・15 幻想から歴史へ

 百足、妙見菩薩、八幡神など、将門の伝説は「タタラ」を暗示するものが多い。
では、実際の接点は?

 それは1981年に発見された。
将門の放牧場の南端から、当時の製鉄炉二基が出土したのだ。
ここから、鉄のこびりついた炉壁、数トンに及ぶ鉄かす、鍛冶場で使うふいごの破片までもが見つかった。
将門は放牧場に隣接した製鉄炉を所有していたのだ。

 関東・東北では、七~八世紀にかけての製鉄炉は、非常に規模が大きく、西日本からの技術を導入していたと見られるのだが、九世紀の半ばには小型の製鉄炉が各地で作られるようになる。
将門のような領主たちが、自分で鉄を作るようになっていたのだ。

 彼らは、自分で農具や馬具、武器を製造していたものと考えられている。
当然、それに従事する民を従えて。
これが、タタラと呼ばれる民である。

 そして、彼らは新兵器を生み出す。

 製鉄炉跡の近くに大宝八幡宮があり、かつて将門愛用の刀が奉納されてあったという。
今はその言い伝えが残るばかりで、刀はない。
しかし、1940年頃に、この神社のすぐそばから古代の刀がまとまって出土した。
これは、十世紀つまり将門の時代の刀であるという。
そのうちの一振りが、今も残っている。

 その刀にはそりがある。

 何を当たり前のことを言っているのだと思われるかも知れないが、平安時代の初期までは直刀が使用されており、この時代は直刀から日本刀へと移り変わる過渡期であった。
刀身にそりのある日本刀はまだ無い。

 この時代、関西には柄が婉曲し刀身は真直ぐな「蕨手刀」しかなかった。
これは、突くことを主体とした刀であり、馬上で使うには不向きな武器であった。
日本刀の形が完成するには、十二世紀まで待たなければならない。

 しかし、出土した刀には刀身にまで反りがある。
これは、日本刀に限りなく近い、斬撃を想定した武器である。
即ち、騎馬で戦う上で有効であるのは勿論、地上での接近戦に於いても極めて精強な武器であった。

 これは想像であるが、兜や鎧にも鉄は使われたたであろう。
刀や矢を通さない身体。 これが、将門の黒鉄の身体の正体であろうと推測出来る。
「妙見菩薩」の加護は確かにあったのかも知れない。

 新兵器。 これが将門軍団の強さの秘密のひとつである。

 さらに、馬である。
将門の所領は、広大な湿地帯だった。
ここは、農業生産には不向きな土地であったが、将門はこれを改良し放牧場を作った。

 将門の放牧地のものと見られる土塁が今も残されている。
土塁の長さ南北に2,4キロ。 築造に動員された人員、推定二万人。
放牧地の広さおよそ350ヘクタール。
巨大な土塁と天然の沼、さらにそれを延長した堀で囲まれた壮大な放牧場であった。

 ここで、将門は当時貴重であった馬を大量に生産していた。
この豊かな資産が、同族間の争いを引き起こす事にもなるのだが、今は騎馬軍団についてだ。

 普段から馬の扱いに長けた将門軍団は、戦闘時に於いてもそれこそ鬼神の如き働きを見せた事であろう。

 新兵器を携えた、鬼神の如き働きの騎馬軍団。
これが将門軍の強さの秘密である。

 旧式の直刀と、遊びの延長で乗る馬術。
都の貴族の軍に、もはや対抗する術はなかった。
鬼門の方角に湧きおこる巨大な雷雲・平将門。
それは、公家の時代の終末と来るべき武士の時代を暗示しているようだった。

2 件のコメント:

mokko さんのコメント...

オオーw(*゚o゚*)w
正に検証だぁ~
最新の技術を持たない人が、将門を切れない・・・
そりゃ知らなければ、そう思ってもしょうがない
なるほどぉ~
タタラ・・・
そういうことだったのかぁ~

日本刀も昔から日本刀の形をしてたのかと思いましたよぉ~
いやぁ~面白い!
実に面白い!
さて、次を読もうo(@^‐ ^@ )O ワクワク

miroku さんのコメント...

mokkoさんへ

そうなのですよね、この時代の刀や鎧については、実は良く解っていないという、謎の時代なのですが、前後のものを調べるとどうもまだ直刀らしい。
この時代は、関東のタタラの方が進んでいたようです。
刀も、包丁などと同じで、反りがないと切れないのですよね。
まあ、逆に都人がいかに平安の惰眠をむさぼっていたかということでもあるのですが。