2009年11月23日月曜日

平将門伝奇考・3 伝説-Ⅱ

 将門の死後、伝説は一人歩きを始める。
しかし、それについて私なりの紹介をする前に、この時代の背景に触れておきたい。
将門伝説を考える上で、この事を頭に置いておく方が解りやすい部分があると思うからだ。

 まず、この時代にはまだ「武士」という階級は存在しない。
それどころか、朝廷直属の軍というものすら存在しない。
征夷大将軍の率いる軍にせよ、それは任命された貴族の私兵である。
この時代の軍人・武士というのは、全てが私兵であった。

 将門は、都にいる当時、藤原忠平の家臣となっているが、そういう意味では、彼は忠平の私兵であったとも言える。

  軍事警察とも言うべき、検非違使という制度はあった。 この多くは、罪人・非人などからなり、言わば同じ立場の者を使って罪人の探索・捕縛にあてていたのだ。
厳密な意味での戦闘集団・軍隊は保有していない。

 では、賊徒の反乱に対してはどうするのか?
征夷大将軍などを任命する。 任命された貴族が自力で軍を組織し、これを賄う。
貴族は、荘園の警護などのため、私兵を有している。 これとて、普段は畑仕事などをしている者が大多数なのだが、これがこの時代の武士であるとも言える。

 後は、諸寺社に御敵調伏の祈祷をさせる。 後には安倍晴明などの陰陽師もこの任にあたる事になる。 御敵=鬼であるから、祈祷によりこれを打ち破れるのである。
現代の常識からすると、無茶苦茶であるが、これがこの時代の政治なのだ。

 征夷大将軍に任じられても、現地に赴かない場合すらある。 在京のまま指示する。 実際は、部下が現地で戦う。 戦費は、貴族が賄うのだが、戦場における略奪の自由が軍人の報酬として認められていた。 無論、貴族とて略奪による恩恵に預かる。 さらに、没収した土地、荘園なども私有財産となる。
勅命による山賊のようなもの、というと言い過ぎであろうか?

 武士の地位は低い。
この時代には、「人」と認められるのは六位以上の貴族のみであり、それ以下は卑しき者である。 場合によっては、者=モノ=鬼と化す。

 東国は、都の貴族の荘園であり、地方豪族の荘園であった。 ここに暮らす人々は、常に収奪され、苦しい生活を余儀なくされていたであろう。 ただ、東国は都から離れているために、一種独立の気風もあったであろう。

 こういう時代背景の基に将門の乱が起こる。
これに、喝采を送る人々も多かったであろうと思われる。

 さらに、将門の若き日について少し触れておきたい。
地方豪族の息子であり、その祖は天皇に連なる家系の出とされる。
膂力に優れ、優しい子供であったとも伝えられる。

 この時代、地方豪族の子息は京に上り官位を授けられるべく運動するのが常であった。
これは名誉というより、地方支配の実利を伴う任官を求めるという意味合いである。
将門は、藤原忠平の家臣として、その人がらを認められながらも、望んだ地位・検非違使の助を与えられず、一介の衛士にしかなれなかった。

 父は鎮守府将軍であり、桓武天皇の五世でありながら、その地位は低く、12年ほどの在京も空しく故郷に引き揚げている。
少年時代は優れた人間として自他共に認める男にとって、これは反骨心を養うに足るエピソードであっただろう。


2009年11月22日日曜日

平将門伝奇考・2 伝説

 さて、将門の乱の発端は、武蔵国権守(ごんのかみ、長官の副官であるが、長官は領地に赴かず京に留まるものであるため、事実上の長官にあたる)興世王及び介(これも同じような立場)源経基と郡司・武蔵武芝との対立に将門が仲裁に入った折の事件である。

 興世王と武芝は和解を受け入れたのだが、その一方で武芝の兵は経基の屋敷を包囲した。 これを将門・興世王・武芝の共謀であると誤解した経基は都に逃げ帰り、朝廷に謀反の訴えを起こす。
これは、常陸・武蔵など五か国の国府の証明により取り下げられる事になる。

しかしその後、罪人・藤原玄明が将門に庇護を求めた折に、これを匿った将門は、引き渡しの要求に応じようとはせず、ついに常陸国府との争いに発展する事になる。
そして、将門は常陸国府を襲撃する。

 藤原玄明を庇った理由は不明。 縁などはおそらくあるまい。 義侠心であったのかも知れない。 あるいは、この国の体制に不満を募らせていたのかも知れない。 その理由は伝えられていない。
 これが、反乱の幕開けとなった。

 そして、ここからは伝説の部類になる。

 常陸国府軍を破った将門は、その頃彼の幕僚となっていた興世王の「一国を討つも坂東を占拠するも罪は同じである」という言を入れ、上野国・下野国と次々に国府を陥落させる。
この時に、将門の前に八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れ神がかり神託を告げる。
「朕が位を陰子(おんし)平将門に授け奉る」

 八幡神=応神天皇が、皇位を譲るという神託である。
こうして、将門は新皇を名乗る事になるのである。
そして、関八州の国司を任官する。

 この報告を受けた朝廷は、諸社・寺に調伏の祈祷を命じ、参議・藤原忠文を征東大将軍に任ずる。
関東では、平貞盛が藤原秀郷(俵の籐太)と共に4000人の軍勢を集め、対将門戦に備えていた。

 これに対し、将門側は兵を一時帰国させており、1000人足らずの軍勢、であったが、先制攻撃を加えるべく発進。 敵を発見した副将藤原玄茂軍は独断でこれを攻撃するが敗退。
追撃する貞盛・秀郷軍は下総川口にて将門軍と開戦し、撤退させる。

 本拠地での起死回生の戦いも、藤原為憲らの軍勢を加え、さらに強大になった貞盛軍の焼き討ちにより破れた将門は、僅か400人の手勢を率いて北山に陣を敷いて援軍を待つ。
しかし、これを先に敵に察知され、ついに最後の決戦に討って出る。

 さて、時は2月14日午後3時、圧倒的な連合軍に対して僅か400人の将門軍の戦いが開始された。
北からの強風を背にした将門軍はその矢に勢いがあり、対する連合軍の矢は力を失う。 これに勢いを得た将門軍は敵方の奇襲も撃破し、その多くを敗走させる。

 残る敵は僅かに300人。 悠々と自軍に引き返さんとする将門。
ここで風向きが劇的に変わる。 京の祈祷の力によると伝説は言う。

 反撃に転じた連合軍に対し、将門は先頭に立ち鬼神の如く戦う。
突風に驚き棹立ちになった馬の背に乗る将門の額に、一本の矢が突き立つ。

伝説では、魔人と化した将門の呪力を破るために、矢尻に自らの唾を塗った魔封じの法を使った俵藤太の放ったものであると言う。
また、一方では、京より呪法により飛来した矢であるとも言われる。

 天慶3年2月14日。 平将門は首を討たれ、彼の壮大な夢が消えた。
首は京に運ばれ、獄門として晒される。
同時期に瀬戸内海で起こった藤原純友の乱と合わせ、これを「承平天慶の乱」と呼ぶ。

2009年11月15日日曜日

平将門伝奇考・1

  序章

 江戸・東京の中心地、千代田区大手町一丁目一番一号に、平将門の首塚がある。
これは、江戸城の正面玄関、大手門の正面に位置する。
 現在もなおこれを移転しようとすると、不思議なことに事故が起こるという。
祟りがあるので、移転出来ない。 これはよく聞く話だ。
 しかし、家康が江戸城を中心とした、江戸の町を建設したころには、江戸の地はまだ、その多くが湿地帯であり、言わば開発前は未開の土地だった。
城を築く場所がなかった訳ではない。
江戸城は、首塚の正面にわざわざ築かれたのだ。
 当時のこの土地の人々に崇められていたとはいえ、朝廷の武人の頭領である征夷大将軍・家康が、朝敵とされた平将門の首塚を幕府の本拠地の正面に据えた都市建設とは、いったい何であったのだろう?
 江戸の呪術的結界の要に使われた。
そういう説だけでは説明しきれない部分があるように思う。

 平将門とは何であったのか?
将門の生涯、伝説、そして日本の三大怨霊と呼ばれるに至る経緯。
これらは、実に興味深い。

 今回は、これらを私なりに考えてみたいと思います。


 1、平将門の略歴

 生誕。 不詳。
各種の説があるが、880年頃であろうと思われる。

 通称は、相馬小次郎など。
平氏の姓を賜った高望王の三男・平良将の子。
平良将は、下総国佐倉を領地とする鎮守府将軍であり、将門は桓武天皇の5世であるとされる。

 15・6歳のころ、平安京にのぼり、藤原忠平と主従関係を結ぶ。
しかし、人がらを認められながらも、低い官位しか与えられなかった。
12年ほどの在京の後、故郷に帰る。
 その帰路に、叔父・平国香の襲撃にあい、これを撃退する。
これは、領地を巡る一族間の抗争の一環であり、この後この抗争が「平将門の乱」へと繋がって行く。

 この後、この抗争は激化・拡大されてゆき、天慶2年、常陸国府との戦いでこれを破り、印綬を没収。
これにより、朝廷への反乱と見なされる。

 この時、側近の興世王の「一国を討てりといえども公の責め軽からじ。 同じく坂東を虜掠して、暫く気色を聞かむ」という言を入れ、将門は関東一円を手中に収め「新皇」を名乗る。

 謀反人となった将門討伐に参議藤原忠文を征夷大将軍とする軍が派遣され、天慶3年2月14日、将門は討ち死にし、この乱は終わる。

 没年、天慶3年2月14日。(940年3月25日)