2009年12月27日日曜日

平将門伝奇考・9 タタラとの符合Ⅱ

 平将門に関しては、一次資料と呼べるような文献がほぼ存在しない。
唯一、「将門記」が存在するのだが、これとて散逸した部分もあり、さらに現存する二冊の写本にも、部分的に記述の相違がある。
さらには、「将門記」自体が、12世紀に書簡をまとめたものであるとする説もある。
その他には、「太平記」などに記された二次資料が存在するのみである。
そして、これらの中には、将門とタタラの関係を暗示する言葉はあっても、直接の関わりを示す文章はない。

 しかし、将門の放牧場が調査された1981年に興味深い発見があった。
放牧場の南端から、二基の製鉄炉が出土したのである。
鉄のこびりついた炉壁、数トンの鉄かす、さらに蹈鞴に使われるふいごの破片が見つかったのだ。

 それ以前から、伝説や縁の神社・仏閣の関係から、将門とタタラの符合については、多くの人が指摘してきたのだが、実証は不可能のように思われてきた。
しかし、関係はあったのだ。

 そして、この事は実に多くの意味を持ち、歴史・伝説の謎の部分を解き明かす鍵となる。
その事については、最後にまとめとして述べたいと思う。
次は、将門にまつわる神社・仏閣について書こう。
そして、江戸の鬼門封じ・風水との関わりについて書いた上で、私の考えをまとめたいと思う。

2009年12月25日金曜日

平将門伝奇考・8 タタラとの附合

 百足は産鉄民との関わりが深い。
金鉱脈に群がっていたという伝承も多い。
例えば、後年、武田信玄は金鉱などの掘削作業を主とする者たちを、戦場での土木工作専門の部隊として組織した。
この部隊は百足衆と呼ばれた。

 百足は金属を好むと考えられていたのだ。
あるいは、坑道から鍬などを担いで、ぞろぞろと作業員が出て来る姿が百足を連想させたのかもしれない。

 将門が矢を受けた部分には諸説あり、そのひとつに「片目を射抜いた」というものがある。
「片目」もまた、タタラを示すキーワードである。
常に同じ方の目で蹈鞴の炎を覗き込む彼らは、一方の目を失明する事が多かったからである。
さらに、同じ足で鞴を踏み続ける結果、片脚が不自由になる者も多かった。
片目・片脚はタタラを示すキーワードだったのだ。

 この「片目を射抜かれた」という伝説は、将門=タタラという図式を意識する者の創作であろう。

 ここで気になるのが、俵籐太の百足退治の伝説である。
「魔除けの唾をつけた矢尻」に射抜かれたのは大百足、そして将門である。
ここにも将門=百足=タタラの図式が垣間見える。

 そして、首塚にはたくさんの蛙の像が配されている。
これは瀧夜叉姫の変化したものが蝦蟇であったので、それにちなむという説もある。
しかし、蛙もまた産鉄民を示すギミックであるのだ。

 他にも将門にまつわる様々な伝説のなかに、将門=タタラを結び付けるものは多い。
それだけではなく、将門ゆかりの神社・仏閣にもタタラのギミックが多く散在する。
現実問題として、将門と産鉄民族の繋がりを示す文献はない。
にも関わらず、この奇妙な附合は何であろうか?

 さらに項を改めて考えてみたい。
この項の補足として、瀧夜叉伝説を簡単に紹介しておこう。

 将門が討たれ、一族郎党は滅ぼされた。
しかし、難を逃れた将門の三女・五月姫は怨みを忘れなかった。
彼女は貴船神社に丑三つ参りをして、妖術を授かる。

 そして、瀧夜叉姫と名を変えて、相馬の城で朝廷転覆の乱を起こす。
朝廷は大宅中将光圀・山城光成に勅を下しこれを討伐する。
妖術対陰陽の激しい戦いの末、瀧夜叉は討たれて将門の元に昇天する。
この妖術合戦のおりに瀧夜叉が変じたものが大蝦蟇である。

2009年12月20日日曜日

平将門伝奇考・7 伝説Ⅵ

 将門が討たれた場面は、額に矢を受けた、あるいはこめかみに矢を受けたと描写される。
どちらでも同じようなものではないかと言われそうだが、こめかみとなると場合によっては状況が変わってしまう可能性があるように思う。
 
 正面の敵に対して、将門が横を向いていたことになるのだ。
無論、戦場での指揮のため、横を向いて指示したという事も考えられる。
だが、正面を向いて戦っていたならば・・・。
 この場合、横にいる人間が射た矢であるということになり、将門は味方の裏切りにより殺されたという想像が成り立つ訳で、そう考えると定説が根本から覆ってしまう。
無論、これは私の夢想・妄想であって根拠はない。

 この矢に関しても、何種類かの伝説がある。
一番有名なのは、朱雀天皇の命により下向した寛朝僧正が、成田山新勝寺にて祈祷を行い調伏にあたったというもの。 この祈祷により風向きが変わり、突風がおこり将門の馬が棹立ちになり、無防備になったために矢が命中したという。
ちなみに、将門の子孫や地元民にはいまだに成田山に参詣しない人も多いと聞く。

 俵籐太が魔除けの唾を塗った矢を射た。
この矢が、将門の弱点であるこめかみ又は眉間を射抜いたために、将門は倒されたという伝説もある。
この話には前日譚というべき話がある。

 都より下向する折に、俵籐太は琵琶湖の瀬田大橋を渡ろうとした。
ところが、瀬田大橋には長さ20丈(約60m)もの大蛇が横たわっているために誰も渡れない。
しかし、籐太は委細構わずこれを跨ぎ渡った。
すると、そこに美女が現れ、「自分は先ほどの大蛇である。 実は、棲みかの三上山に毎晩大百足が現れて、自分の娘を食べてしまう。 この大百足を退治出来る勇者を探すために、瀬田大橋に横たわり、肝の据わった人物を待っていた」と言う。

 籐太はこの願いを入れて、大百足退治に乗り出す。
そして、大蛇に教えられた通り、大百足の弱点である眉間に魔除けの唾を塗った矢を射てこれを滅ぼした。
実は、大蛇は琵琶湖の竜王の娘であり、この後籐太は琵琶湖湖底の竜宮で歓待を受け、宝物を貰ったと言う。

 このエピソードは、将門が討たれる場面と妙に符合する。
それは、魔除けの矢と眉間という表面上の事だけでない。
将門と百足には深い関係があるという考えがあるからだ。

 百足=将門。
次回は、これについて考察してみたい。

 

2009年12月19日土曜日

平将門伝奇考・6 伝説Ⅴ

 さて、首塚を巡る謎については、ここで一旦おいて、伝説の話に戻ろう。

 まずは、将門の首を巡る伝説だ。
京都市下京区に、「天慶年間平将門の首を晒した所也」と由緒書きのある小さな祠がある。
関東で討たれた将門の首は、塩漬けにされて運ばれ、この地で晒されたのであろうか。

 討たれた将門の首は、かっと目を見開き、俵藤太に喰らいつこうとしたしたという伝説がある。
また、京の都に運ばれた首は、晒されてもなお萎びるどころか、活き活きとしており、目を見開いたまま夜な夜な「私の身体はどこにあるのか。 ここに来い。 首をつないでもう一戦しようぞ!」と叫び続けたという。
そこで、歌人・藤六左近が呪の込められた歌を読むと、首はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。

 また、将門の首は、東国を目指して天空高く飛び去ったという伝説もある。
この首が途中で力尽きて地上に落下したとされ、各地に首塚伝承が伝わる。
その最も有名な場所が、千代田区の首塚である。

 「ならば、あの首塚の祟りはどういうことだ?」という疑問を論じるのは、後にして、この項を続けよう。

 この首塚についても「太平記」の記述によると、京都の七条河原で晒された首は、関東に残した愛人・桔梗を慕って飛び去り、現在の首塚がある場所に落下したという記述がある。
こちらは、怒り狂う首の話に比べて、かなりロマンチックである。

 この話には、現在、首塚の近くに、桔梗門や桔梗濠があるのはその名残であるという後日譚まであるのだから、良く出来た話ではある。
私としては、個人的な思い入れから、この伝説を支持しい気がする・・・。

 また、この伝説とは全く趣を異にするものもある。
こちらの将門は、その目に二つの瞳孔を持ち、全身は黒鉄、逆巻く髪で口からは言葉と共に火を吐く大男であった。
その身体はいかなる刃物も通さぬ魔人の如き存在であったという。

 こうなるともうミノタウロスのような怪物である。 (余談だが、このミノタウロスと将門は附合する部分が別にある、これは後に述べる)
この怪物・将門の弱点がコメカミであると、俵籐太と通じた桔梗御前が教えたのが原因で、将門が討たれたという伝説である。
ふむ、これでは「桔梗恋しさ」で将門の首が飛び去ることはないだろうなと思わされる話である。

 もっともこの首塚伝説というのは、将門オリジナルという訳ではなく、木曽義仲・楠正成・明智光秀など、非業の死をとげた人物にはつきもので、一説にはその数は全国で100基を越えると言われる。
蘇我入鹿などのように、首が飛び去り奈良高見峠に落下して塚が築かれたという伝説も多い。

 

2009年12月12日土曜日

平将門伝奇考・5 伝説Ⅳ

 さて、この首塚そのものが現代でも祟るのだという。
現代における将門怨霊伝説の基盤となっているのは、この都市伝説にも似た「事件」かも知れない。

 寛永14年(1637年)頃、それまでは海岸であった柴崎の地は埋め立てられ、首塚のあたりは大名屋敷が立ち並ぶ事になる。 
首塚は、酒井雅楽頭の屋敷の中庭に残された。

 その後、ここに将門稲荷神社が建てられ信仰されたのだが、1671年、この屋敷内で伊達安芸らが殺される。 いわゆる伊達騒動という事件であるが、これが将門の祟りであるとして恐れられた。

 明治時代には酒井邸は取り壊され、大蔵庁舎が建てられるのだが、首塚は祟りを畏れて取り壊される事なく残る。
やがて、関東大震災が起こり、この辺りは焼跡となる。 そして、その復興の整地の際に、件の石室が発見されることとなる。

 石室発掘後、塚は取り壊され池を埋め立てて平地として、ここに大蔵省の仮庁舎が建てられた。
発掘調査は大正12年末のことである。
その後、大正15年、大蔵大臣早速整爾が病死。
さらに、矢橋管材局課長他十数人が死亡。
政務次官武内氏他多数が仮庁舎で転倒して怪我人が続出する。

 まるでファラオの呪いを彷彿とさせるような出来事である。
これは、将門の呪いであるという噂が広まり、昭和3年、仮庁舎を撤去。
首塚に礎石を復元し慰霊祭が行われる。
祭主は神田神社社司平田盛胤氏であり、大蔵大臣三土忠造氏以下幹部関係者が拝礼している。

 さらに、第二次大戦後、米軍がこの地を整地して利用しようとした。
この時も、工事用のブルドーザーが突然転倒し、運転手の日本人が死亡した。
そして、塚の破壊は中止された。

 なおも異変は終わらない。
1961年、首塚の旧参道上に日本長期信用銀行が建てられるるのだが、二年後に塚に面した部屋の行員が次々に発病する。 そこで、神田神社の神職を招いてお祓いをしてもらった。
その後、塚に面した行員の机は窓側を向くか横向きにして、首塚に不敬にならぬよう配慮されたという。

 1970年、塚に隣接する三井物産が、この土地の買収を都に打診したところ、暗に祟りがあると言われこれをあきらめたという記事が朝日新聞に掲載されている。 
ちなみに当時の地価は一億八千万円であり、それほどの土地が怨霊伝説のために売れなかったという「事件」というようなコラムである。

 1973年、首塚を挟んだ二つのビルが新築工事を行い、丁重に供養をして工事に取り掛かったビルは無事故であったが、供養しなかったビルは地下工事中に工事員2名が死亡、同じ場所で怪我人が続出した。

 

 
 

2009年12月6日日曜日

平将門伝奇考・4 伝説Ⅲ

 平将門には伝説が多い。
これには、彼が活動した常陸を中心にしたもの、都を中心としたもの、江戸を中心としたもなどがあり、それぞれ成立過程の違いがある。
 さらに、これに後世の浄瑠璃や各種の物語の創作が加わる。
実体に比して、伝説は多用であり、膨大だ。

 また、現実的な一次資料が存在しないに等しいので、現実との比較は困難であり、さらに歴史の時期によって将門の評価が著しく変わる。
平将門の評価はイデオロギー論争であるとさえ言えるかも知れない。

 さて、将門伝説。
その全てを列挙することは不可能だし、私の手に余る作業でもある。
その主だったところを紹介するに留めたい。

 千代田区の江戸城の正門正面に将門の首塚がある。
ここには以前、神田神社があり、将門を主神として祀っていた。
創建は730年と言われる。

 神田神社は1606年に駿河台へ、そして1616年に現在の地へ移された。
しかし、その首塚だけは元の場所から移されることがなく、現在も大手町の超高層ビルの隙間に鎮座している。

 毎年9月22日には慰霊祭が行われ、普段でさえ献花が絶えることがない。
近年は我が敬愛する荒俣宏氏の「帝都物語」などの影響で、東京の守護神としての人気も高いようだが、慰霊祭も献花も、本来は祟りをおそれての事だったというのは有名な話である。

 討ち死にした将門の首は、京都に送られさらし首にされたという。
しかし将門の首は天空に舞い上がり、関東に向かって飛び去った。
これが力尽きて落下した場所が現在の首塚の場所であるという伝説がある。

 そして、茨城から逃れてこの地に移住していた将門の一族がこれを祀ったとも言われる。
首は、あるいは、この将門の一族の者が京都から持ち出し、この地に祀ったのかも知れない。
このあたりが妥当な線ではないだろうかと、私は考えている。

 明治政府は当初、この地に置いた大蔵省の敷地内に首塚を保存していた。
当時は将門塚と呼ばれていたようで、現在よりかなり規模の大きいものであったようだ。
そして、関東大震災の土地整備のおりにそこから石室と言われるものが発見されている。
これが将門の棺であったのかどうかは分からない。
棺は空っぽだったのである。

 石室には比較的近い時代に一度発掘された跡があったらしい。
政府に発掘の記録に残っていないので、これは明治以前の話であろう。
誰が、何の目的で発掘したのかは、謎のままである。

 ただ、ここに眠っていたものが将門の遺骨であるのなら、私の考えもまんざら見当はずれではないだろう。 
無論、真相は解らない。 
そして、それで良いのだ。
この記事は「伝奇考」なのだから。