2009年11月22日日曜日

平将門伝奇考・2 伝説

 さて、将門の乱の発端は、武蔵国権守(ごんのかみ、長官の副官であるが、長官は領地に赴かず京に留まるものであるため、事実上の長官にあたる)興世王及び介(これも同じような立場)源経基と郡司・武蔵武芝との対立に将門が仲裁に入った折の事件である。

 興世王と武芝は和解を受け入れたのだが、その一方で武芝の兵は経基の屋敷を包囲した。 これを将門・興世王・武芝の共謀であると誤解した経基は都に逃げ帰り、朝廷に謀反の訴えを起こす。
これは、常陸・武蔵など五か国の国府の証明により取り下げられる事になる。

しかしその後、罪人・藤原玄明が将門に庇護を求めた折に、これを匿った将門は、引き渡しの要求に応じようとはせず、ついに常陸国府との争いに発展する事になる。
そして、将門は常陸国府を襲撃する。

 藤原玄明を庇った理由は不明。 縁などはおそらくあるまい。 義侠心であったのかも知れない。 あるいは、この国の体制に不満を募らせていたのかも知れない。 その理由は伝えられていない。
 これが、反乱の幕開けとなった。

 そして、ここからは伝説の部類になる。

 常陸国府軍を破った将門は、その頃彼の幕僚となっていた興世王の「一国を討つも坂東を占拠するも罪は同じである」という言を入れ、上野国・下野国と次々に国府を陥落させる。
この時に、将門の前に八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れ神がかり神託を告げる。
「朕が位を陰子(おんし)平将門に授け奉る」

 八幡神=応神天皇が、皇位を譲るという神託である。
こうして、将門は新皇を名乗る事になるのである。
そして、関八州の国司を任官する。

 この報告を受けた朝廷は、諸社・寺に調伏の祈祷を命じ、参議・藤原忠文を征東大将軍に任ずる。
関東では、平貞盛が藤原秀郷(俵の籐太)と共に4000人の軍勢を集め、対将門戦に備えていた。

 これに対し、将門側は兵を一時帰国させており、1000人足らずの軍勢、であったが、先制攻撃を加えるべく発進。 敵を発見した副将藤原玄茂軍は独断でこれを攻撃するが敗退。
追撃する貞盛・秀郷軍は下総川口にて将門軍と開戦し、撤退させる。

 本拠地での起死回生の戦いも、藤原為憲らの軍勢を加え、さらに強大になった貞盛軍の焼き討ちにより破れた将門は、僅か400人の手勢を率いて北山に陣を敷いて援軍を待つ。
しかし、これを先に敵に察知され、ついに最後の決戦に討って出る。

 さて、時は2月14日午後3時、圧倒的な連合軍に対して僅か400人の将門軍の戦いが開始された。
北からの強風を背にした将門軍はその矢に勢いがあり、対する連合軍の矢は力を失う。 これに勢いを得た将門軍は敵方の奇襲も撃破し、その多くを敗走させる。

 残る敵は僅かに300人。 悠々と自軍に引き返さんとする将門。
ここで風向きが劇的に変わる。 京の祈祷の力によると伝説は言う。

 反撃に転じた連合軍に対し、将門は先頭に立ち鬼神の如く戦う。
突風に驚き棹立ちになった馬の背に乗る将門の額に、一本の矢が突き立つ。

伝説では、魔人と化した将門の呪力を破るために、矢尻に自らの唾を塗った魔封じの法を使った俵藤太の放ったものであると言う。
また、一方では、京より呪法により飛来した矢であるとも言われる。

 天慶3年2月14日。 平将門は首を討たれ、彼の壮大な夢が消えた。
首は京に運ばれ、獄門として晒される。
同時期に瀬戸内海で起こった藤原純友の乱と合わせ、これを「承平天慶の乱」と呼ぶ。

2 件のコメント:

mokko さんのコメント...

途中から伝説っぽくなるっていうのは
どういうことなんでしょう・・・
確かに巫女が神託を告げるってのは
いかにも怪しいけれど、こういうのって
昔は普通にあったんですよね?
でも、さすがに額に刺さった矢が
魔封じとか呪法によるものとまで言われると
どうにもこうにも怪しいとしか思えない
まぁ~本人が一番怪しい存在なんですけど・・・
(・-・*)(。。*)ウンウン
流れはわかりました!

miroku さんのコメント...

 mokkoさんへ

 どうも、このあたりの事を少し書いておかないと、伝説を紹介する上で不都合な場合がありそうなので・・・。 次を含めて、これがベースになります。 そして、何故伝説が生まれるのか、また江戸の風水の要たりえるのか・・・、そこにまで繋げる予定です。