2009年12月6日日曜日

平将門伝奇考・4 伝説Ⅲ

 平将門には伝説が多い。
これには、彼が活動した常陸を中心にしたもの、都を中心としたもの、江戸を中心としたもなどがあり、それぞれ成立過程の違いがある。
 さらに、これに後世の浄瑠璃や各種の物語の創作が加わる。
実体に比して、伝説は多用であり、膨大だ。

 また、現実的な一次資料が存在しないに等しいので、現実との比較は困難であり、さらに歴史の時期によって将門の評価が著しく変わる。
平将門の評価はイデオロギー論争であるとさえ言えるかも知れない。

 さて、将門伝説。
その全てを列挙することは不可能だし、私の手に余る作業でもある。
その主だったところを紹介するに留めたい。

 千代田区の江戸城の正門正面に将門の首塚がある。
ここには以前、神田神社があり、将門を主神として祀っていた。
創建は730年と言われる。

 神田神社は1606年に駿河台へ、そして1616年に現在の地へ移された。
しかし、その首塚だけは元の場所から移されることがなく、現在も大手町の超高層ビルの隙間に鎮座している。

 毎年9月22日には慰霊祭が行われ、普段でさえ献花が絶えることがない。
近年は我が敬愛する荒俣宏氏の「帝都物語」などの影響で、東京の守護神としての人気も高いようだが、慰霊祭も献花も、本来は祟りをおそれての事だったというのは有名な話である。

 討ち死にした将門の首は、京都に送られさらし首にされたという。
しかし将門の首は天空に舞い上がり、関東に向かって飛び去った。
これが力尽きて落下した場所が現在の首塚の場所であるという伝説がある。

 そして、茨城から逃れてこの地に移住していた将門の一族がこれを祀ったとも言われる。
首は、あるいは、この将門の一族の者が京都から持ち出し、この地に祀ったのかも知れない。
このあたりが妥当な線ではないだろうかと、私は考えている。

 明治政府は当初、この地に置いた大蔵省の敷地内に首塚を保存していた。
当時は将門塚と呼ばれていたようで、現在よりかなり規模の大きいものであったようだ。
そして、関東大震災の土地整備のおりにそこから石室と言われるものが発見されている。
これが将門の棺であったのかどうかは分からない。
棺は空っぽだったのである。

 石室には比較的近い時代に一度発掘された跡があったらしい。
政府に発掘の記録に残っていないので、これは明治以前の話であろう。
誰が、何の目的で発掘したのかは、謎のままである。

 ただ、ここに眠っていたものが将門の遺骨であるのなら、私の考えもまんざら見当はずれではないだろう。 
無論、真相は解らない。 
そして、それで良いのだ。
この記事は「伝奇考」なのだから。

2 件のコメント:

mokko さんのコメント...

将門の首が体を求めて関東に飛んでいったというくだりは
一番有名?な話しですよねぇ~
それで打ち首にする時は、未練や恨みを残されないように
目の前の石か何かに噛み付いてみろと言ったとか言わないとか・・・
そこに集中してるから、恨みを忘れると思ったとか?(^◇^;)

石室の話は知りませんでしたよぉ~
やはり掘り下げると色んな話しが出てくるものですねぇ~
解明はできなくても、色んな説を聞きたくなります♪

miroku さんのコメント...

 mokkoさんへ

 その話も次回書きます。
石室の話にも、怖い続きがあります。
いつになれば書き終わるのか・・・。不安になってきました。
 だって、将門だけでも大変なのに、俵藤太の大百足退治っていう話もあるし、将門の娘・瀧夜叉伝説も・・・。
 考えれば将門ってのは伝説の宝庫だなあ。