2009年12月12日土曜日

平将門伝奇考・5 伝説Ⅳ

 さて、この首塚そのものが現代でも祟るのだという。
現代における将門怨霊伝説の基盤となっているのは、この都市伝説にも似た「事件」かも知れない。

 寛永14年(1637年)頃、それまでは海岸であった柴崎の地は埋め立てられ、首塚のあたりは大名屋敷が立ち並ぶ事になる。 
首塚は、酒井雅楽頭の屋敷の中庭に残された。

 その後、ここに将門稲荷神社が建てられ信仰されたのだが、1671年、この屋敷内で伊達安芸らが殺される。 いわゆる伊達騒動という事件であるが、これが将門の祟りであるとして恐れられた。

 明治時代には酒井邸は取り壊され、大蔵庁舎が建てられるのだが、首塚は祟りを畏れて取り壊される事なく残る。
やがて、関東大震災が起こり、この辺りは焼跡となる。 そして、その復興の整地の際に、件の石室が発見されることとなる。

 石室発掘後、塚は取り壊され池を埋め立てて平地として、ここに大蔵省の仮庁舎が建てられた。
発掘調査は大正12年末のことである。
その後、大正15年、大蔵大臣早速整爾が病死。
さらに、矢橋管材局課長他十数人が死亡。
政務次官武内氏他多数が仮庁舎で転倒して怪我人が続出する。

 まるでファラオの呪いを彷彿とさせるような出来事である。
これは、将門の呪いであるという噂が広まり、昭和3年、仮庁舎を撤去。
首塚に礎石を復元し慰霊祭が行われる。
祭主は神田神社社司平田盛胤氏であり、大蔵大臣三土忠造氏以下幹部関係者が拝礼している。

 さらに、第二次大戦後、米軍がこの地を整地して利用しようとした。
この時も、工事用のブルドーザーが突然転倒し、運転手の日本人が死亡した。
そして、塚の破壊は中止された。

 なおも異変は終わらない。
1961年、首塚の旧参道上に日本長期信用銀行が建てられるるのだが、二年後に塚に面した部屋の行員が次々に発病する。 そこで、神田神社の神職を招いてお祓いをしてもらった。
その後、塚に面した行員の机は窓側を向くか横向きにして、首塚に不敬にならぬよう配慮されたという。

 1970年、塚に隣接する三井物産が、この土地の買収を都に打診したところ、暗に祟りがあると言われこれをあきらめたという記事が朝日新聞に掲載されている。 
ちなみに当時の地価は一億八千万円であり、それほどの土地が怨霊伝説のために売れなかったという「事件」というようなコラムである。

 1973年、首塚を挟んだ二つのビルが新築工事を行い、丁重に供養をして工事に取り掛かったビルは無事故であったが、供養しなかったビルは地下工事中に工事員2名が死亡、同じ場所で怪我人が続出した。

 

 
 

4 件のコメント:

mokko さんのコメント...

なんと!(゚O゚;
とんだところでmokkoの本当のご先祖様と繋がってしまった(゚O゚;

今のmokkoの苗字は、ご先祖様がそのままの苗字でいると
生きている事がバレるってことで、某武将から
同じ苗字を名乗る事を許されたという経緯があります。

元の苗字のご先祖様は、伊達騒動の渦中におりました。
なんてこったぁ~(゚O゚;

miroku さんのコメント...

 歴史というやつは、これだから面白い。
mokkoさんも、数奇な家系を継ぐ者なのですね。 まあ、それも、らしいですが。
               (^◇^)

 しかし、今回は晒し首について書けると思っていたのですが・・・。 ああ、後何回書けば終わるのだろう・・・。

mokko さんのコメント...

あらあら・・・ご遠慮なさらずに
何回でも書いて頂きたい。
後から追加記事ってことでも全然OKでしょ~
やっぱり将門の話って、知らない話もかなり多いと思うので
ものすごぉ~く期待してますから(p^_^q)

miroku さんのコメント...

 しかし、将門は知名度の割に一次資料が極端に少ないのですよね。 実像は想像するしかない。 ん・・・? 書き放題だあ♪