2010年2月21日日曜日

平将門伝奇考・18 結

 平将門の乱は終わった。
将門は討たれ、その首は京の都に晒された。
しかし、その伝説は終わらなかった。

 将門と同時期に瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友に対して、朝廷は階位を贈る事で懐柔しようとしている。
全力を持って将門に当たりたいという気持ちがここに見てとれる。
将門はそれほどまでに恐れられたのである。

 この恐怖と、民衆の英雄に対する思いが数々の伝説を生んだ。
将門の首は、死してなお言葉を発し、自分の身体を求めて坂東に飛び去る。
そして、関東の地で怨霊と化して朝廷に呪いをかける。
少なくとも、都においては将門は怨霊であった。

 一方、将門の地元坂東の地では、将門は地霊として敬われている。
坂東の民の守り神として・・・・・・。
その例の一つが、神田神社への民衆の信仰であろう。
死してなお将門が慕われた証は、様々な伝承や寺社への信仰に現れている。

 時は流れ、徳川が江戸の地を本拠地と定め、湿地を開拓する。
この折に、家康・天海により、将門は江戸の守護神・地霊として重要な役割を振りあてられた。
首塚は大手門の正面に残され、神田神社は厚く庇護される。
江戸期において、神田神社の大祭の神輿だけは、江戸城内に入る事を認められている。
これは破格の扱いである。

 家康は、源頼朝と並び将門を武家の祖と考えたのだ。
自らの祖先を厚く祀るならば、祖霊は守護神となる。

 一方でまた、関東での将門人気というものがある。
民衆の敬う将門を自らの祖として祀る事は、徳川政権の人気へと繋がる。
さらに、武士の祖であるならば、全ての武士はこれに刃を向ける事が出来ないという事でもある。

 これが、将門が江戸の守護神とされた理由であろう。
しかし、私はさらにもう一つ別の意図が見えるような気がする。
江戸城の正面に「新皇」将門を据える。
本来、朝廷に対してこれは不敬にあたる。
家康は、それでもあえてこの不敬を犯したのだ。
それは、朝廷に対して、日本の主権は我にありという高らかな宣言ではなかっただろうか?

 そして、ここから真の武士の時代が始まったのだ。

            了。

2 件のコメント:

mokko さんのコメント...

オオーw(*゚o゚*)w
すんごいですぅ~
なんか壮大な物語を読んだかのようですよ
将門って・・・そうだったのかぁ~
義の人で、民に慕われながらも中途半端
なんなんだぁ~
それでも、やたらと伝説が多いという理由は
はっきりしました。
家康って姑息なんだから計算高いんだか
わけわからない・・・
でも色んな事考えてたってのはわかりますねぇ~
名前を残す人ってやはり只者ではないのですね・・・

これで終わりなんですねぇ~
これ、小説にまとめればいいのに・・・

miroku さんのコメント...

mokkoさんへ

随分長くなってしまいました。
将門の結界についてももう少し書こうと思ったのですが、これは江戸・徳川の結界という括りになるので、機会を改めて・・・。
とりあえず、終わりました。
書いていて、色々気付く事も多かったです。

小説・・・、確かに面白そうですね。
でも、読む方が楽しいです。(^◇^)