2010年1月31日日曜日

平将門伝奇考・14 伝説と史実の狭間‐Ⅱ

 さて、ここで「タタラ」である。
これは流浪の産鉄民族という側面を持ち、日本の古代史にその影を大きく落とす存在だ。

 一部には、遥かヒッタイトで生まれた金属材料を掘り出し、加工する産鉄民族が、中国大陸を渡り、朝鮮半島を経由し、日本にその技術を伝えたという説もある。
この民族は、白鳥の神話を持っており、これが日本に伝わりヤマトタケルの白鳥神話を産んだと、大胆な仮説を述べる方もおられるようだ。

 ここまで行くと、もはや話が壮大に過ぎて、私の手には負えない。
だが、この「タタラ」を抜きにして、将門を語れないのも事実である。

 タタラは、片脚で鞴を踏み、片目で炉を覗き込む。
故に、片目・片脚を悪くする者が多かったという。
だから、タタラの神は片目・片脚である。

 記紀神話における、天目一神・アマメマノヒトツノカミは正に鍛冶神の性格を持っている。
やがて、神は時代を下って零落し妖怪となる。 これが、「一本だたら」などである。

 夏に河で砂鉄を取り、冬に山で蹈鞴作業をする民。
川童(かわわろ)・山童(やまわろ)、これは河童である。
さらに、これらは頭がカムロであり、「童形」である。
これは、髷を結わない、即ち常民では無い事を表わし。
四民制度の埒外の存在であることを示す。
タタラは籍を持たない流浪の民であった。

 彼らは、鉄鉱石や砂鉄を求めて、山を流浪し、製鉄に必要な木材が尽きるとまた別の場所に移るという、一所不在の集団であっただろう。

 タタラは金属を加工し、武具を作る。
故に、産鉄神であり、武士の守護神である。
八幡神や北辰信仰はこれに連なる。

 将門を支えた、タタラ集団が存在すると、ここで断言しよう。
これは、妙見信仰を持った集団であり、将門の元で武器を作り、馬具を作り、ある時は戦闘に加わったであろう。
これが、妙見菩薩の加護の正体だ。

 だが、妙見菩薩は最後に将門を見限り、敵方につく。
神にあらざる人間集団ならば、この行いも簡単に理解出来る。
おそらくは、敵方の切り崩し工作・諜略があったのであろうと推測出来る。
これが妙見菩薩が敵方を守護した理由である。

 記紀神話では、ヤマトタケルが女装してクマソタケルを討った話が記載されている。
古来、日本ではこのような謀略・知略をも戦略にたけた行為として称える風習がある。
敵の切り崩し工作は当然の行為であっただろう。

 そして、将門は討たれた。
朝廷側直属の軍などは存在しない。
討ったのは同族と、もう一人の将門になったかも知れない俵籐太の軍勢である。

 殿上人は自らの手を汚さない。
検非違使の制度を見よ。
犯罪者を取り締まるのは、卑賤の者によって・・・。
同類に同類を当てるという思想である。
人にあらざる鬼に鬼を当てるのだ。

 かくして、鉄の身体を持った戦鬼・将門=百足の王は百足殺しの「英雄」=鬼・俵籐太に滅ぼされる。
一説には片目を射抜かれたとある。 これも、タタラの暗示。 ご丁寧な話だ。

 あるいは、コメカミを射抜かれたのであれば、矢は横=味方のいる場所から飛んできた事にになる。
この場合、弓を射たのは、やはり籐太か、はたまた、味方であったタタラの集団か・・・。

 貴族にあらずば人にあらず。
人にあらざる関東人は、将門が新皇を名乗ったことに大いに喝采した事であろう。
しかし、将門と人々の夢はここに尽きた。

 これが、私の将門幻想だ。
そして、これだけでは妄想に過ぎない。

 次回、これを論証する。
神話と史実を重ねる。



 

平将門伝奇考・13 伝説と史実の狭間 Ⅰ

 まだまだ語るべき事柄は尽きない。
だが、そろそろまとめに入ろう。

 まずは、気になるキーワード「タタラ」について。
承平5年の良兼との合戦中に、将門の前に妙見菩薩の化身が現れたという話(源平闘諍録)については前述した。

 将門の前に現れた「童子」は、将門に河の浅瀬を教え、矢を与え、彼の代わりに矢を射て味方する。
良兼はその姿に恐れをなし陣を引いた。
 将門がその童子に跪いて問うと、童子は「私は妙見菩薩である。 上野の花園という寺に祀られているので、志があるならば私を迎えよ。 私は十一面観音の化身であり、五星中の北辰三天子の後身である。 東北の角に向かって我が称号を唱え、笠のしるしに千九曜の旗をさせ」と語った。

 妙見菩薩の守護を得た将門は破竹の勢いで、連戦連勝を重ねる。
これは、神仏の守護譚の多くに見られるパターンだが、この場合、話はこれで終わらない。
やがて、将門が新皇を名乗ると、これが「不敬」であるとして、妙見菩薩は彼を離れ敵の陣営に味方するのだ。

 将門が妙見菩薩をないがしろにした訳ではない。 あるいは、妙見信仰を破棄した訳でもない。
「新皇を名乗る事は不敬である」という理由で、一方的に敵にまわったというのだ。
そして、将門は討たれる。

 この場合の妙見菩薩とは何者であろうか?

 妙見菩薩は北極星を神格化したものであり、北斗七星までを含めて信仰される。
人間界の帝王を守護する神であり、武家の守護神でもある。
後世の千葉周作・北辰一刀流などもこの神を祀り、道場も縁のある神田に設けている。

 鎌倉幕府を起こした源頼朝は八幡神を信仰した事でも有名であるが、鎌倉・鶴岡八幡宮には「北斗堂」と呼ばれる堂が15世紀過ぎまで存在したという。
さらに、頼朝は日光東照宮に摩多羅神として祀られており、摩多羅神は北斗七星の傍星である。
摩多羅神は神像の頭上に北斗七星を戴く北辰に関わる神だ。
故に、この場合、八幡神=妙見菩薩という関係が成り立つ。

 ちなみに、摩多羅神は人の寿命に関わる妙見菩薩と同様の働きをし、陰陽道においては泰山府君と同一視される。 また寿命を司り、死後の世界を支配するという役割から、スサノオとの同一性も見られるという、実に複雑な神だ。

 さて、一説によれば、この八幡神や妙見菩薩、北辰はタタラに関わる神であるとされる。
さらに、将門の首塚に見られる蝦蟇、蛙もまたタタラとの関連性があると言う。
そして、英雄・俵籐太が瀬田大橋で討ちとった百足と将門の関連もタタラとの附合を暗示する。
(前述したように、百足=タタラの図式が成り立つ)

 至るところに立ち現れるタタラの暗示。
これは一体何を意味するのだろうか?


 

2010年1月24日日曜日

平将門伝奇考・12 地上の北斗七星

 聖地や宗教的建造物が、意図的に配置されているラインに関する考察は数多い。
結界とは、宗教用語で、おおまかには神域の内と外の境界の意である。
マジカルにとらえると、魔方陣や五忙星などの図形を描いたり、神像・仏像などで魔の侵入を阻むために形成されたラインと言う事になる。

 レイラインとは、イギリスで古墳や祭祀場の配列を調べたおりに、ラインを形成する遺跡のある地名のあとに、全て「レイ」がついていたことにより付いた名称である。
日本では、小川光三氏の提唱した「太陽の道」が有名だ。
これは、北緯三四度三二分の東西線上に並ぶ七百kmにも及ぶラインで、西は出雲の須佐神社から東は下田近辺にある賀茂神社まで、ずらりと神社や聖地が並ぶ様は壮観である。

 ラインそって配置することによる、霊的守護力の強化。
その実効性についての議論はともかく、そのような考え方が古来より見られたというのは事実だ。
将門ゆかりの神社仏閣に関しても、ラインについての考察は数多い。

 例えば、北斗七星の形に神社仏閣が配置されているという考察。
加門七海氏によれば、鳥越神社・兜神社・神田明神・将門首塚・筑土八神社・水稲神社・鎧神社を結ぶと巨大な北斗七星が地上に描かれるという。
ここまでは、前述の江戸結界の神社仏閣と同じである。
氏はさらに、北斗の補星としての摩多羅神・妙見菩薩の位置に「鬼王神社」があると説く。

 七つの神社、あるいは将門の七人の影武者伝説。
柳田国男氏の「七塚考」によれば、全てが北斗七星信仰と関係するという。
非業の死を遂げた人物を、北斗七星や七という数字で鎮魂する習わしがあったというのだ。

 将門の鎮魂のために地上に配置された地上の星座。
北斗配列もまた巨大な結界なのかも知れない。

2010年1月23日土曜日

平将門伝奇考・11 守護神のメカニズム

 怨霊から守護神へ・・・。
蛇足ながら補足しておこう。
 古来より、日本では怨みを残して死んだ人物は怨霊になるとされた。
これにも法則があって、基本的にこの「人物」というのは皇族に限られる。
菅原道真など、ほんの少数の例外を除くと、皇族でなければ怨霊にはなれない。
せいぜい、幽霊や妖怪になるくらいである。

 一つには、皇族は選民であり、霊力が強いと考えられたせいでもあるだろう。
だが、本質的には、怨霊も祖霊であると言う事に起因するのであろうと思う。
皇族は国の祖霊として祀られる。
故に、その時点で神である。
怨念を抱いた神ならば、それは怨霊に他ならない。

 本来は現象が先にある。
例えば、疫病が猛威をふるう。
古代にはウィルスなどという概念は無い。
故に原因不明の怪死である。

 これは「気」が枯れる事に起因すると考えられる。
「気」とは、エネルギーであり、これが枯れると病になり、はなはだしきは死に至る。
「気」=ケであり、ケが枯れるとはケ枯れ=穢れである。
穢れに触れると、触れた者もケが枯れる。
故に、穢れは忌避される。

 死人は究極の穢れである。
疫病による死体がそこらじゅうに転がっている状況とは、穢れに包囲された状況である。
古代においては、疫病人や死人を隔離する理由をそのように考える。
因果の因に対する考えが違うとはいえ、対処方の基本は同じである。

 「気」という考えもまた、この時代の科学である。
科学とは、合理的で汎用性のある説明の体系なのだ。

 ケが枯れた状態はいかにして回復させうるのか?
ケを回復するのが祀りである。
祭りとは本来祀りなのである。
枯れたケを回復する方法が、祭りである。

 祀りによって、ケが回復する。
ケがフル充電された状態を「ハレ」と呼ぶ。
故に祭りとは「晴れの日」なのである。

 エネルギーはかく輪廻する。
エネルギー残量のない「ケ枯れ」から通常の「ケ」へ、そしてフル充電状態の「ハレ」へと。

 負の祖霊である怨霊は、故に祀られる。
敬い、祀りあげる事により、怨念が晴れる。
祟りなすほどの強力なパワーは、外部から侵入する悪しき鬼の侵入を阻止する力に転化される。

 かくして、怨霊は守護神となる。
否、成り立ちを考えるならば、怨霊とはすでに神なのである。

 そして、将門は江戸の地霊となり守護神になった。

2010年1月11日月曜日

平将門伝奇考・10 江戸の地霊

 将門の首塚のある柴崎は、現在と違って江戸湾が内陸に入り込んでいたために、当時は海辺に面していた。
そのため、洪水や津波の被害が多かった。
それらの被害の全てが将門の祟りであるとされたため、安房神社に合祀された。

 伝説では首が飛んできた・・・となるわけだが、実際は将門の家臣の依頼により、僧侶が京に上り首を貰い受けて来たといわれる。
そして、神田山の胴体を掘り出して首と共に供養した。

 これが神田神社の起こりであると言われるのだが、事はこれだけでは終わらない。
江戸時代に入ると、柴崎の地は大名屋敷になり、天海により再び首と胴体が離れ離れにされる事になる。
柴崎の地に首塚を残して、神田神社は現在の地に移転される。

 何故、全てを移転しなかったのだろうか?
首塚は、江戸城の正面玄関・大手門の正面に残されたのだ。

 そして、江戸の都市は、江戸城を中心に、時計回りに堀を巡らせて開発が進められる。
さらに、江戸城を中心にして、東海道・甲州道・中山道・奥州道・日光道の五街道が配される。
堀と街道の交点にには橋を架け、見附と呼ばれる城門が設けられた。

 これが江戸の都市開発の基盤となるのだが、奇妙な事に、街道と堀の交点には全て将門ゆかりの神社が配置されている。
大手門前には首塚が、ここは奥州道の起点であり、さらに浅草橋門前には将門の手を祀った鳥越神社がある。

 日光道には胴体を祀った神田神社、中山道・牛込門には足を祀った筑土八幡神社、甲州道・四谷門には鎧を祀った鎧神社、東海道・虎ノ門には兜を祀った兜神社がある。

 街道と川・堀の交点はまさに境界を示すポイントである。
ここに祀られるのは通常、道祖神であり即ち塞(さえ)の神。
異界より侵入せんとする悪鬼を遮る神である。

 将門の霊は、江戸の地霊として鎮魂されると同時に、江戸の守護神たる役割を担わされたと言えよう。
家康・天海により、江戸の都市計画に将門は地霊として組み込まれたのだ。

 神社によっては、正式に将門を祀神を加えていない場合もあるが、これら全ての神社が「将門公を祀る」と公に認識されている。
神田神社の祭神は大己貴命・平将門・少彦名命、鳥越神社は日本武尊・天児屋根命・徳川家康、筑土八幡神社は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇、鎧神社は日本武尊・大己貴命・少彦名命・平将門、兜神社は倉稲魂命(うたのみたま)・大国主命・事代主命である。
 これらは、ごく大雑把に言えば全て国家鎮護に関わる神と考えれば良い。
即ち、江戸を守護する神社と考えれば良いだろう。

 さらに神田神社は天海によって江戸の総鎮守という、最高の社格まで与えられている。
江戸の守護神として祀られた平将門。
では、何故将門が祀りあげられたのか?
次回は、いよいよその考察をしよう。